GLOCAL Vol.1
10/24

8国立の芸術機関を設立することを掲げた議案を連邦議会に提出した。そして1952年には、民主党の下院議員チャールズ・R・ホーウェル(Charles R. Howell)(ニュージャージー州)も、ジェイヴィツのプランをより洗練させた芸術機関の設立議案を提出した。しかし、全体として両法案ともに反対が多く、芸術支援を企図した政策の法制化は、次のような理由から陽の目を見ることはなかった10)。 第一には、冷戦構造の確立が「共産主義」への恐怖や不寛容の風潮を生み出し、保守的な体制順応主義(コンフォーミズム)のムードが広がり、モダンアートが「共産主義」的とみなされる傾向が強まったためである。アメリカでは、スターリン政権の社会的リアリズムが芸術の純粋性と自律性を削いでいるという評価が根強く、1930年代の事業促進局(WPA)のような国家的リスクを排除すべきであると考えられた。その意味では、1950年代初頭にマッカーシズムの嵐が吹き荒れたことも、アメリカの公的な芸術支援策に複雑な影を落とす結果となった。 第二には、芸術支援を受ける側、つまり芸術界に、公的支援を受ける姿勢がまだ十分には育っていなかったためである。ホーウェルの議案が提出されると、1952年5月に下院では、初めて芸術支援に関する公聴会が開催された。この公聴会に出席した芸術コミュニティのアーティストは、ニューディール期のような芸術支援プログラムが必要かどうか疑っていたばかりか、連邦政府が公的資金を通じて芸術表現に介入してくるのではないかと危惧しており、統一した芸術支援の主張を展開するようなステージには立っていなかった11)。 しかし、こうした公聴会がもたれた意義は大きく、連邦議会で正式に政府の芸術支援に関する論議が始まり、芸術界でも、公的資金を受ける意義や芸術の社会的貢献について、さかんに論議が行われるようになった。連邦議会では、ホーウェル案が認められなかった後も芸術支援の論議が萎むことはなく、民主党下院議員のフランク・トンプソン2世(Frank Thompson Jr.)(ニュージャージーがなかったと、否定的に評価されているほどである4)。 しかし、1960年代に入ると、「公共空間」に芸術作品を設置する文化政策が連邦政府によって再開され、“パブリックアート”というコンセプトが定着するようになった。美術史家のハリート・F・セニー(Harriet F. Senie)は、このような変化を“パブリックアートのリバイバル”と述べ、20世紀初頭までの公共建築で見られた“アメリカ・ルネッサンス”の様式と、大恐慌のもとで実施されたニューディールの芸術プログラムが統合されて、1960年代から“パブリックアート”が公共政策の重要な一翼となったと説明している5)。Ⅱ第二次大戦後から1950年代の芸術界 アメリカでは、1950年代まで大半の「公共空間」には、戦争を記念するモニュメントや英雄を称える具象像が展示されてきたが、このようなトレンドが次第に人々の意識や日常空間にそぐわなくなったことも確かであった。これは、戦争の記憶から脱皮しようとする社会意識の反映であるとともに、記念碑や英雄像が都市空間におけるモニュメントとして機能しなくなったことの表れであり、それが現代のパブリックアートを誕生させる転機となった。 1950年代のアメリカは、第二次世界大戦を経て国際社会の主導権を握り、未曾有の経済発展を実現し、国民の約60%が中産階級の生活水準に到達したといわれる。そして、一般市民の間にテレビが急速に普及し、マス・メディアの広がりとともに、“豊かなアメリカ”の生活様式を共有する国民意識が高まった6)。 このようなアメリカの「黄金時代」は、言うまでもなく軍需産業の拡大に大きく依存していたが、米ソ両国を軸とする冷戦構造が確立するなかで、アメリカが、独立以来の旗印である「自由」と「民主主義」とともに、社会主義陣営に対してアメリカ文化の優位性をアピールする動きとなって現れた。アメリカ映画はすでに1920年代から輸出され、アメリカ製品への憧れを世界に植えつけていたが、1927年には商務省(Department of Commerce)内に「映画科」が設置され、「貿易は映画に続く」(Trade follows Films)という戦略がとられてきた7)。 アメリカのパブリックアート政策が確立する背景にはこのような経緯があったが、すでに第二次大戦前のアメリカでは、芸術の分野、特に美術界などの影響力が強まる要因が醸成されていた。それは、ドイツやイタリアのファシズム台頭が社会不安を募らせ、ヨーロッパ・アヴァンギャルドの芸術家たちが、ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命してきたからであった。彼らは、アメリカの芸術文化に大きなインパクトを与え、ヨーロッパとアメリカの芸術を融合させることにより、アメリカの芸術が新たな地平を切り開く“触媒”ともなった。 その結果、第二次大戦後のアメリカでは、ヨーロッパの抽象美術と超現実主義(Surréalisme)の結合が模索され、抽象表現主義(Abstract Expressionism)の芸術世界が主流となった。そして、1950年代後半には、芸術の発信地がパリからニューヨークにシフトする傾向がますます強まり、抽象表現主義を中心とするアメリカ美術展が国際的に認知されるようになったのである8)。 こうして、1960年代に入ると、アメリカは、大量生産・大量消費の豊かな大衆社会のもとで、ポップ・アート(Pop Art)の世界を広げるのであり、アメリカのパブリックアート政策もこのような背景から確立することになった。しかも、それを支えたのは、一部の裕福なエリート層ではなく、生活にゆとりのある中産階級であり、アルヴィン・トフラー(Alvin To er)のいう「文化の消費者」(culture consumer)たちであった9)。Ⅲ芸術支援をめぐる政治論議 第二次大戦が終了して間もない1948年、共和党の上院議員ジェイコブ・K・ジェイヴィツ(Jacob K. Javits)(ニューヨーク州)は、

元のページ  ../index.html#10

このブックを見る