GLOCAL Vol.1
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16企画したと考えられる。ところが4月に田宮如雲は甲信地方の鎮撫へと出兵してしまった。金兵衛らの京都滞在はわずか3日間であり、6日には京都を出立して名古屋へ戻り、18日には甲州の田宮如雲宿陣へと向かった。なお、京都を出立する際に、隊卒に一両ずつ、締役2人に一両一分ずつが支給されている。 この名古屋滞在中の12日(明治8年「元農同心、後北地一番隊の者国債寮よりお尋ねにつき、答の扣」。なおこの史料では、4月12日となっているが、おそらく閏4月12日の間違いであろう)に、61人は「農同心」として名古屋藩に「給禄六石金六円」で召抱えられることになった。正式に藩から禄をもらう身分となったわけである。草薙隊の成立 閏4月18日、農同心61人および勘定奉行同心という役をもらった締役2人は名古屋を出立した。5月2日に韮崎へ到着し、田宮如雲と合流することができた。この時に「農同心」という名義が「不都合」なので、田宮如雲から「草薙隊」と命名されたようである。 田宮如雲は金兵衛に対して、「今度草薙隊人別組立方を始め、右隊上京、猶又当地え出張候に付ても附添、多人数の若年者に万端深切に引廻し、且自分の失費不相厭」尽力したことは奇特なので、御目見の際には「一代切名披露」とすることを約束した。 金兵衛の草薙隊における役割とは、草薙隊創設の水野代官所における徴募役であり、若年層の「附添」役であり、会計役であったことがわかる。この功労に対しての処置が、藩主へお目見えの際に名前を呼ばれること、という農民に対する近世的な褒美が与えられたわけである。 また田宮如雲は、金兵衛に示諭書を与えて草薙隊に読み聞かせるように指示した。この示諭書には、「上の御沙汰に随」い武辺の「奉公を志して出勤」することを讃え、功名次第で引き立てることが述べられている。また、「天子」「国主」のために力を尽すことを諭し愛知隊などの存在が知られている。磅礴隊とは、壬生藩士松本暢の応募によっておもに名古屋の下層農商民を隊士として結成され、豪農子弟などを組み込みながら発展した。その一部は東征軍に随行し、上野戦争にも出兵している。集義隊は藩の要請を受けて結成された博徒集団として有名であり、北越・奥州へと転戦した。草莽隊の政治意識がどの程度のものであったかは、個別事例で大きく違うものであろう。しかし、本来は武士身分でない者たちが、草莽隊すなわち武装兵隊に自主的に参加していることは共通しているとみてよいであろう。草薙隊の前身 さて、それでは草薙隊の結成についてみていこう。 1868(明治元)年4月18日付の林金兵衛宛水野代官書状をみると、同18日に「京都市尹府隊」という隊の人選が行われたが、隊士のなかに年齢が高すぎる者がいて人数を減らさなくてはならなかったので、年齢15~20歳で「人質正直、無病壮健」な人物を多人数選んで至急陣屋に随行することが金兵衛に命じられている。26か27日には出発したいといっているので、かなり差し迫った要求である。 水野代官所とは、尾張藩の行政機構で、愛知郡・春日井郡・可児郡の111か村を支配していた。金兵衛は1858(安政五)年にその水野代官所総庄屋に就任したことがある。金兵衛の「覚(日記)」からは、4月26日に春日井を発足し、翌27日に名古屋を出立、閏4月3日に入京した様子が見て取れる。金兵衛は「締役」という立場で、31人の若者を引率したようである。31人の出身村は以下のとおりである。 上条村3人・下条村3人・上水野村4人・和泉村2人・玉野村1人・上品野村1人・上志段味村1人・明知村1人・沓掛村1人・猪子石村1人・牛毛村2人・田楽村6人・大手池新田村1人・大草村2人・神屋村1人(以上、春日井郡)・和合村1人(愛知郡) 4年後に作成された名簿(「元北地隊連名覚帳」)からこの31名の当時の年齢を割り出すと(ただし4名の名前・居村が一致せず)、15歳3人・16歳4人・17歳5人・18歳4人・19歳6人・20歳9人であり、水野代官の要請通りの年齢構成であることが判明する。 また、京都へは水野代官所からだけではなく、別の代官所から呼ばれた村人たちもかけつけた。武儀郡・加茂郡・可児郡・恵那郡・各務郡・土岐郡の130か村を支配する太田代官所からは、上野市郎右衛門を締役として25人が、武儀郡・山県郡・加茂郡の53か村を支配する上有知代官所からは5人が確認され、あわせて61人が行動を共にしている。 彼らが京都に向かった理由は、当初の「京都市尹府隊」という名前からも推測できるように、京都の治安を担当する予定であったと考えられる。当時、尾張藩の側用人として徳川慶勝の側近をつとめた田宮如雲は、王政復古クーデタ(新政府成立)後は徴士参与に任ぜられ、新政府に出仕していた。3月には内国事務局判事として京都裁判所に付せられたので、田宮如雲直属の隊士として尾張藩が(林金兵衛居村の和爾良村の名を今につなぐ和爾良神社)(林金兵衛顕彰碑)

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