GLOCAL Vol.2
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12 しかし、その作戦は失敗し、池田恒興・森長可らが戦死した。秀吉はその報告を受けて竜泉寺(名古屋市守山区)まで出陣するが、家康は小幡城そして小牧城に戻っており、家康勢を十分に攻撃することはできなかった。やむなく秀吉は柏井に退却したが、秀吉勢は篠木・柏井一帯の一揆勢に追い討ちをかけられ、殿(しんがり)をつとめた堀尾吉晴の奮戦でようやく窮地を脱した(太閤記)。ここで柏井・篠木の一揆の動向は注意されるため、その記載を挙げておきたい。 五日の早朝に池田又秀吉卿参、此興行今明日相延候はゞ、首尾相違いたすべく候、其子細、篠木・柏井の一揆を駆催し、村瀬作右衛門尉を一揆大将とし森川権右衛門要害に入置候はんあらましなる由、篠木より告知する者有と申上しかば、秀吉尤もなりと同じ給ふて、明日六日打立、東三河を少々令放火、やがて引取、篠木・柏井に両城を拵へ、一揆原に多くの扶持方など扶助し、毎夜敵の在々へ夜討を入おびやかす程ならば、尾州半国は味方に属し候べし、必敵を侮候な、まばらがけし侍るなと諌めて、勝入を帰し給ふ、 (太閤記・池田勝(恒興·元助)入父子討死之事) 池田恒興は羽黒の敗戦に責任を感じて何とか挽回しようとし、「三河中入」に関して延引することは良くなく、村瀬作右衛門を篠木・柏井の一揆大将として森川権左衛門の要害に入れることを秀吉に申した。秀吉はそれに同意し、篠木・柏井に城を築き、一揆原に多くの扶助をし、毎夜敵の夜討をするならば、尾張半国は手に入るだろうとして、恒興を諌めて戦いに臨ませたという。ここで羽柴方は篠木・柏井の一揆を味方につけられると考えていたことが知られる。 しかし、長久手の敗戦で楽田に撤退しようとした秀吉勢は篠木・柏井で一揆勢に攻撃されることとなった。同じくその史料も示す。 殿は堀尾茂助仕候へ、即此竜泉寺に残て我馬じるし下なる川を越なば陣払ひを進軍した。4月6日、秀吉は人夫を篠木(春日井市)に送るよう、堀尾茂助(吉晴)・一柳直末に指示しており(卯月六日付羽柴秀吉書状、『玉英堂稀覯本書目』第287号、2007年)、拠点となる構えや屋敷を構築する準備をしていたと見なされる。8日、秀吉は一柳直末に「かしわい之内さかい七郎左衛門屋敷」を守備するよう命じた(四月八日付羽柴秀吉書状、一柳文書)。坂井七郎左衛門は織田信次(守山城主)の臣である。家老の坂井喜左衛門の一族であろうか。また、同日に秀吉は生駒吉一らに「柏井之内森川屋敷」守備するよう命じた。柏井とは柏井庄を中心とする地域で、春日井市東南部に比定される。いずれの屋敷も所在地は不明であるが、秀吉はここを拠点として「三河中入」作戦を進めたと見なされる。 しかし、池田・森らは岩崎城(日進市)の攻撃に手間取り、その動きを知った家康は小牧城から小幡城に移り、長久手に向かい、信吉の軍勢を襲撃した。その攻撃を知った池田・森らは急遽引き返そうとしたところ、岩崎口(長久手)で合戦となり、池田恒興・元助父子や森長可らは敗死した。家康はこの戦いの様子を次のように伝えている。「今日九日午の刻、岩崎の口において合戦に及び、池田紀伊守(元助)・森庄蔵(長可)・堀久太郎(秀政)・長谷川竹(秀一)、そのほか大将分悉く人数一万余り討ち捕り候、すなわち上洛を遂ぐべく候間、本望察せらるべく候、恐々謹言、」(四月九日付徳川家康書状、徳川美術館所蔵文書)。この文書は九日申刻(午後4時ごろ)に書かれており、織田・徳川方が大勝利を収め、この勢いで上洛することを家康の家臣平岩親吉・鳥居元忠に伝えている。 なお、家康の進軍経路は小牧山 → 小針村 → 青山村 → 春日井上原豊場村東野合にこかしか湫と云窪之通 → 如意村之東味鏡村之北 →味鏡之東 → 勝川村 → 勝川村之東(具足を替える) → 竜泉寺之下、上条村之内田中 → 小幡原 → 長久手と伝えられており(小牧陣所之者之咄伝之覚、江崎庸三氏所蔵文書)、当時の道路がどのようであったかを考察する手掛りとなる。中世の庄園絵図や近世の村絵図と比較・考証する必要がある。長久手の戦いの敗戦と撤退 4月9日の朝、秀吉は「柏井のさかい七郎左衛門屋敷」に到着し、ここは構えが悪く、周囲も陣取をしているのでその屋敷を放棄するよう一柳直末に指示し、あわせて徳川方の動向を注進するよう命じた(四月九日付羽柴秀吉書状、一柳文書)。そして、生駒吉一・矢部家定・山内一豊・一柳直末らに柏井の「森河屋敷」を堅固に改修するよう命じた(同日付羽柴秀吉書状、一柳文書)。秀吉は森河屋敷に軍勢を集結させようとし、他の城は壊すよう指示したのである。この森河屋敷は「三河中入」を試みる秀吉勢の重要な拠点であったと言えよう。犬山大高蟹江蟹清水砦小牧楽田守山小幡竜泉寺岩倉上末黒田篠木柏井勝川清州比良長久手岩崎星崎宮山横根阿久比刈谷緒川桜井安祥岡崎東端西尾牟呂山崎成岩苅安賀猿投山矢作川羽黒X図1 小牧・長久手の戦いの関係地図(尾張北部)(『角川地名大辞典(23)愛知県』「中世城郭分布図」をもとに作成)

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