GLOCAL Vol.2
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2013 Vol.22013 Vol.213致し退候へと被仰付しかば、堀尾奉り、御心安おぼされゆるへと川を御越候へ、某是にあらん程は能に沙汰し可申と云て、小幡の方に向て弓・鉄炮を張出し、雑人原は先へ退つゝかるき者八百許にて有しが、観音堂に火をかけ心しづかに退しに、敵も暮はざれば、弥しづへと坂にかゝつて退しなり、(太閤記・秀吉卿依池田父子討死御出馬之事) 殿しんがりは堀尾茂助(吉晴)が務め、竜泉寺から柏井、そして楽田に向けて撤退がなされた。何万もの軍勢が庄内川を越した辺りで、次のようなことが起こった。 かくて翌日本陣楽田へ勢を可打納との事に極て、明日も又殿は堀尾茂助、後号帯刀先生吉晴、にて有ければ、篠木の内大草村に在て其時刻をぞ待にける、秀吉十二万騎の勢を段々に備させ、くり引に引給ふが、順風の帆、下坂の車よりいと安う見えたりしは、豈韓信が下風に非乎、夜をこめつゝ退けれ共、多数なれば辰の刻許にやうへ里をはなれ野へ上りしかば、いざ堀尾も退なんとせし処に、はや一揆共雲霞の如くおこり来て、茂助が宿陣のやしきを幾重共なく打囲み、弓・鉄炮を打入へ、時の声を作りかけ、既に攻入むと見えしなり、突て出、成次第に退き給へと云も有、いやへ八重十重打囲み、殊に篠木・柏井は昔より究竟の射手の多き所なれば、争か退得なん、唯此構を堅固に守り後巻を請給候へかしと云も多かりけり、 (太閤記・秀吉卿十二万騎の勢を打納給ふ事) 篠木・柏井の一揆勢は堀尾茂助の軍勢に襲い掛かったのであった。これまで味方につけられるであろうと見ていた勢力が敵対したことは羽柴方にとって衝撃の大きいことであった。これは一連の小牧・長久手の戦いのなかで、秀吉自身の最大の危機であったと言える。長久手の敗戦により、好機と見た一揆の勢力が寝返ったのか、元々織田・徳川方との結びつきがあったのか、その構成員も含め、詳細は不明であるが、この一揆の動きは長久手の戦いを考える上で注意すべきである。おわりに その後の動向について触れておくと、堀尾勢の奮戦により、秀吉は楽田に退くことができた。この敗戦の影響をできるだけ抑えたい秀吉は諸方に尾張の状況は心配ないことを伝えた。例えば4月10日、秀吉は因幡国の亀井茲矩に尾張国における戦況を「よって当表のこと、家康小牧山に居陣し候あいだ、拾四五町に押し詰め陣取り候、きっと討ち果たすべく候あいだ、心やすかるべく候…」(卯月十日付羽柴秀吉朱印状、石見亀井文書)と伝えている。同11日には信濃国の木曽義昌に池田恒興の「三河中入」失敗後も尾張国が安泰であるとして次のように伝えている。「…しかしながら一昨日九日池田勝入(恒興)・森武蔵(長可)、三州堺目に相働き、岩崎城責め崩し、首数多討ち捕り、大利を得候ところ、即ち岡崎面へ深々と相動き、一戦に及び勝利を失い候、定めてその辺りへ雑説とも申すべく候、爰元さしたる儀なく候…」(卯月十一日付羽柴秀吉書状写、亀子文書)。あわせて池田照政に疵の見舞いを述べ、軍勢・武具の用意を促したり(卯月十一日付羽柴秀吉書状、林原美術館所蔵文書)、戦死した池田恒興の母や池田家の家臣に池田父子への弔意を表したりしている(卯月十一日付羽柴秀吉書状、林原美術館所蔵文書、卯月十一日付羽柴秀吉書状、大阪城天守閣所蔵文書)。これは池田家臣団が羽柴方から離散しないようにするためでもあった。 このような処置をしつつも秀吉は体制をととのえて再度攻撃の準備をした。4月11日、織田信雄は山口重勝・長田久琢に羽柴秀吉が尾張国二之宮山に城普請をしたので、その動向に注意するよう命じていることから(卯月十一日付織田信雄書状写、永田氏所蔵文書「あらまし」)、なお秀吉は小牧城などを攻撃目標とし、その準備をしていたことが知られる。 この後、春日井地域では激しい戦いはなされていないようである。そして篠木は羽柴方が支配していたことが知られる。5月2日、秀吉は尾張国犬山・楽田などの占領地支配について指示しており、それに関して「楽田廻り、そのほか小牧原より東しのぎ辺り、なり次第、左衛門監(堀秀政)、百姓をも召し出すべき事…」と小牧原から篠木まで堀秀政が百姓を召し出すことを認めたことが知られる。このような点も含め、春日井地域は長久手の戦いを考える上で重要な地域であることを確認しておきたい。11月、秀吉は信雄と和睦し、戦いは終結した。同月18日、秀吉は前マイルkm1020写真1 天正12年(1584)4月・長久手合戦地域の空中写真(尾張北部)(Google Earthをもとに関連地名を記して作成)

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