GLOCAL Vol.4
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2014 2014 Vol.4Vol.42014 Vol.4大学開学50周年記念号大学開学50周年記念号大学開学50周年記念号9その後の進路 博士後期課程2年目の時、ゼミで指導を受けていた阪上先生よりお声がけいただいて、翌年より中部高等学術研究所(中高研)の研究員となった。都合上、大学院は中退しなければならず、結局、大学院には3年しか在籍しなかったことになるが、この3年間は本当によく勉強したと思う。ただし、苦労したというよりも、楽しくてあっという間に過ぎていった3年であった。 なお、中高研に移ってから3年目に博士論文を書き上げ、国際人間学研究科に提出して、博士号をいただいた。論文博士としては、同研究科第一号ということであり、山下学長から学長室で博士号授与されたのも、今ではとても良い思い出である。 結局、中高研には3年間在籍し、その後は、在アルジェリア日本国大使館で専門調査員として勤務した。アルジェリアでの滞在も計3年に及んだ。 そして、2011年4月より、職を得て、中部大学で教員として働くことになった。本職に就くまで、本当に多くの方にお世話になり、また、多くの幸運に恵まれたと感じるが、その出発点は、チュニジアから帰国後、中部大学大学院に進学し、研究の楽しさを知ったことにあると思う。現在、本大学院で学んでいる学生、あるいは、これから入学を希望する方には、ぜひ、存分に大学院生活を楽しんで勉強してほしいと思う。それに応える教員側の人材は豊富である。大学院進学の二つの理由 中部大学大学院国際関係学研究科(現・国際人間学研究科)に進学したのは、今から10年以上前の2002年4月である。筆者は、それまでの2年間、北アフリカのチュニジアで青年海外協力隊員として活動し、帰国したところであった。 そもそも、大学院に進学しようと考えたのは、「真面目な」理由もあったが、もうひとつ「打算的な」理由もあった。真面目な理由からいえば、日本とチュニジアの経済格差について自分なりに学び、考えてみたいという思いからである。 もうひとつの打算的な理由のほうは、個人的な進路と関係していた。チュニジアから帰国したあと、国際協力の道に進みたいと漠然と考えていたのだが、その際、修士号取得が多くの場合のポスト公募の必須条件になっていたのである。大学院進学は、いわば修士号という就職活動のための免状取得が目的でもあった。院生としての生活 帰国後、どの大学院に進学しようかと考えているとき、本屋でたまたま、峯陽一先生(現・同志社大学教授)の『現代アフリカと開発経済学』という書籍を見かけた。今から考えると、内容について充分理解できていたとは思えないが、それでも、「アフリカ」と「開発」という二つのキーワードが自分の興味と重なっていたため非常に印象深く、峯先生のいる中部大学大学院に進学することにした。 さて、中部大学大学院に入学し、晴れて、峯先生のゼミに入った。ただし、中部大学大学院の良いところは、いろいろな先生から指導を受けられ、かつ少人数教育で行われることである。筆者は、峯先生のほか、阪上孝先生、立本成文先生、長島信弘先生、原田太津男先生、宮本正興先生、武者小路公秀先生、あるいは現在も中部大学にいらっしゃる河内信幸先生や田中高先生、中山紀子先生など多くのすばらしい先生方から指導を受けた。他大学で、これほどの先生方からごく少人数のゼミで指導を受けられる大学院はそうそうないのではないだろうか。 大学院では北アフリカの近代史を研究対象としたが、多くの先生方から指導を受ける中で自分の関心分野が広がり、なんでもかんでも興味のあることは勉強することにした。峯先生のゼミで読んだ内田義彦や、宮本先生のゼミで読んだウォルター・ロドネー、阪上先生のゼミで読んだカントなど、懐かしい思い出とともに、今の自分の学問的基礎を作っていると感じる。 修士号取得が進学のひとつの目的であったが、大学院で勉強するうちに、研究というか勉強が楽しくてしょうがなくなった。先生方と相談して、修士論文を一年目に提出させてもらい、二年目からは博士後期課程に進学することになった。そのぶん、朝も夜も休まず勉強したが、とにかくこうした柔軟な対応を取っていただいたおかげで、なんとか大学院での勉強を続けることができた。中部大学大学院で学んだこと人文学部共通教育科 講師桃井治郎(ももい じろう)1971年生まれ。中部大学大学院国際関係学研究科中退。博士(国際関係学)。2011年より中部大学講師。主たる研究領域は、国際関係学、マグレブ研究。著書に、桃井治郎・玉田敦子編(2013)『近代と未来のはざまで』風媒社。学位記授与式にて

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