GLOCAL Vol.4
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2014 2014 Vol.4Vol.42014 Vol.4大学開学50周年記念号大学開学50周年記念号大学開学50周年記念号23国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻准教授山元貴継(YAMAMOTO Takatsugu)2002年名古屋大学大学院文学研究科史学地理学専攻博士後期課程修了。博士(地理学)。専門は歴史地理学・文化地理学で、日本統治時代におけるアジア各地の農村の変化のほか、アジア各地のサブカルチャーの実態を研究。さらに、この東海地方のサービス文化についての追究も。著書に『都市の景観地理 韓国編』(共著)、『現代韓国の地理学』(共著)、『名古屋の“お値打ち”サービスを探る』など。人がやってきて…」のお話を聞く機会がある。例えば、筆者が調査を行っていた韓国中部の地方都市郊外では、「日本人が山に登って行き、自分たちのものにした」という話が伝わっていた(山元 2000)。調査では当時の一帯の土地取引も確認しているので、確かに、現地の方の所有であった山の斜面の一部(写真1)が、金融機関の「抵当」となってしまったことが明らかとなる。しかし一方で、その山の麓にあった広い面積の水田などが日本人個人の所有地になってしまっていたことについて、住民の関心はほぼなかった。その山の斜面については、「抵当」に入ったことでおそらく確認のため測量に入った人々がいた可能性があるが、面積的にはさほど大きくないその斜面のことが強烈に印象に残ったと思われてしまうのはどういうことか。 種明かしをすれば、山々の連なりには「気が流れている」と認識し、条件の良い山々の斜面に一族代々の墳墓を築く慣習を根強く残してきた朝鮮半島では、稜線上に列状に、下方に向け順々に子孫の墓地を設けていくことが多い(図1)。われわれ日本人などにとってはちょっとした山の斜面の一部に手を付けただけのことであっても、現地の人々にとっては、大切な墓地のための空間を途中で断ち切られてしまったことになるのである。これはじめに ここ数年、依然として日本とアジアとの間では、「歴史認識」をめぐり、不穏な空気が漂っている。アジア各国から日本に向けては、戦争責任やそれに伴う賠償を求める動きが続いている。それに対して日本においては、多くの人々が、アジア各国が想定している歴史には確証が持てない部分が多く、とくに日中戦争や日本による植民地支配などによって生じたとされる被害に関する主張は過大なものとなっていて、到底受け入れられないという態度を示しているとされる。 このような日本とアジア各国とでの「歴史認識」のずれについて、残念ながらインターネットなどでは、その対立を煽る過激な意見すらも飛び交っている状況にある。そこで筆者は、韓国や台湾のとくに農村地域でフィールドワークを行っている地理学研究者として、こうした「歴史認識」をめぐって考えさせられていることを紹介しつつ、歴史学と地理学とをともに学ぶことの意義を考えたい。植民地支配にみられる「地域差」 たとえば、韓国の歴史教科書などにおいてひところ強調されていた内容として、「日本は朝鮮半島の土地の約4割を所有するに至った」との記述があった。こうした記述は、植民地時代に日本人が大挙して朝鮮半島に乗り込み、現地の土地を奪っていったイメージを与える。そこで、現地で実際に資史料を確認すると、確かに開港地などで、その土地のほとんどが日本人の所有となっていた都市がみられる。しかし、当時朝鮮半島の大部分を占めていた農村地域に向かうと、土地所有者として日本人はなかなか登場しない。すなわち、植民地支配にはかなりの「地域差」があったといえる。特定の地域だけを取り出し光を当てると、いくらでも「植民地支配は過酷であった」と強調することが可能となるのである。 同様に、植民地時代の日本人と現地の人々との関係についても、現地調査を行うと「地域差」を感じることとなる。当時、多くの日本人がアジア各地を闊歩していたイメージがあり、確かに朝鮮半島だけでも百数十万人規模の日本人が居住していた時期があったとの計算がある。しかし、農村地域で聞き取り調査を行うと、多くの地域で、当時を知る住民の記憶に残っている日本人といえば、せいぜい警察官と学校の先生、そのほか数家族というレベルでしかないことが多い。数十年に亘った植民地支配とはいえ、アジア各地の隅々まで日本人が「進出」することは容易なことではなかったと思われる。ふれてはいけなかった「空間」 かといって筆者は、植民地支配を肯定するつもりはない。現地調査ではやはり、「日本日本の「歴史認識」とアジア各国の「歴史認識」―アジア各地でのフィールドワークの経験から―写真1 韓国・清州市郊外の山々に囲まれた集落(この右手が問題の「斜面」)

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