GLOCAL Vol.5
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6国際人間学研究科 国際関係学専攻/国際関係学部 中国語中国関係学科 講師和田知久(わだ ともひさ)1969年生まれ。2001年に大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程を単位取得退学。2009年より中部大学講師。主たる研究領域は、1980年代以降の小説作品・文学制度を中心とした中国同時代文学。中国同時代文学における「規範」への服従と、それからの逸脱について者も輩出することとなった。  果たして、現在の中国文学は政治への従属状態から解き放たれているのだろうか。そして、政治の側は文学の逸脱を易々と許しているのだろうか。ここでは重点作品扶助制度の創設と茅盾文学賞の改革に着目し、それにいたるまでの経緯をたどりつつ、同時代中国における新しい「政治と文学の関係」について考察してみたい。既製の文学制度への不信と批判 近年中国では、ブログなどで公開した見解をめぐって巻き起こった論争が広く社会一般の話題となることがある。若手の人気作家韓寒と著名な文学評論家である白燁による論争は「韓白の争い」と呼ばれた。ベストセラーを続出し商業主義的な成功を収めた若手作家を文壇の住人たり得ぬ文学愛好者と批判する白燁に対して、韓寒は文壇が持つ狭隘な業界意識やその象徴としての中国作家協会、そして「茅盾文学賞」をはじめとする文学賞制度への反発を、嫌悪に満ちた言辞で綴った。 中国作家協会は、中華人民共和国建国前夜、1949年7月に結成された文学芸術界の全国的統一機関の下部組織である中華全国文学工作者協会をその前身としている。その「規約」によれば、「作家を組織して」「党の方針と政策を学習させ、社会主義的価値観を実践し」「文学創作の正確な方向を堅持させる」ことはじめに 1942年5月23日、延安で行われた文芸座談会の締めくくりに、毛沢東は数十名の文学者、芸術家と中国共産党幹部を前にして、プロレタリア階級の文学、芸術は「革命という機械全体の中の“歯車やネジ釘”」であると説いた。 この文芸座談会は、中国共産党にとっては国民政府の包囲攻撃を受けつつ日本軍とも戦わねばならない絶体絶命の危機にあった時期に、支配地域の文学者や芸術家たちを、党の指導の下に組み入れることを目的として行われたのであるが、そこでの講話はやがて全中国の芸術運動を指導する基本理論となった。「政治に偉大な影響を与えるもの」であるからこそ「文芸は政治に従属するものである」と規定したこの「文芸講話」は、国共内戦、中華人民共和国建国期を経て、その後も中国の文学、芸術を呪縛する存在として君臨し続けた。 毛沢東の死去と「四人組」の逮捕により文化大革命が収束するのと前後して、「文革後」の中国文学が再始動する。時折、守旧派による反撃と揺り戻しを経ながらも、創作の自由が公然と提起され、中国文学は一時、政治の桎梏から解き放たれたかのような活況を呈した。20世紀中頃までの西側の近代文学作品や文学理論の精華が翻訳などの形で急速かつ無秩序に紹介され、その影響を受けて、文体や物語展開の実験を大胆に試みた作品が登場したり、反逆精神に満ちた若い主人公が旧来の価値意識を拒絶するというような作品が登場したりもした。しかし、1989年春に中国各地で巻き起こった民主化要求運動が6月4日未明、武力によって鎮圧されると、この自由で多様な創作や研究の流れは数年間息を潜めることを余儀なくされた。やはり文学は政治に服従させられたのである。 1990年代に入ると、中国経済はインフレを伴いながらも驚異的な急成長を遂げる。このことは、政治機構を含めて市場経済に適応するための大規模な社会変革を促すことになった。文化・出版・メディア業界にも市場経済の大波は押し寄せ、市場価値を追求せざるを得なくなり、作家自身にとっても出版文化と創作環境の大きな変化は看過できるものではなく、自己変革や調整を迫られることになった。 一方で、政治・経済構造の変化に応じて、かつてのような中央権力と共産党イデオロギーによる思想統制の力は明らかに減少し弛緩した。それに代わる社会規範力として働き始めたのは商業主義という資本の論理であったが、その間隙を縫って魅力的な文学も多く登場した。民主化運動弾圧時に海外に逃れた作家を含めて、1980年代に作家として成功し、90年代にさらにその創作を深化させたベテラン作家による成熟した高レベルの文学も書かれ、その中からはノーベル文学賞受賞

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