GLOCAL Vol.6
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2015 Vol.62015 Vol.62015 Vol.62年額12,000円は免除してもらった。寮、住み込みのアルバイト、下宿と、住居も替わった。寮生活は息苦しく、部屋のドアに野坂昭如の「とかく雑魚ほど群れたがる」と書いた紙を貼ったら、上級生から「これはなんだ」と、怒鳴られ、結局3か月で飛び出した。住み込みのアルバイトは、運送会社の社長の息子の家庭教師で、週に6日社長宅で教え、夜は会社の宿直室で寝泊まりした。社長からは通学用にスバル360を貸与してもらい、夕食は毎回社長の家族と一緒だった。大学の指導教員は、日本史中世が専門だった。ここでも私は教員とそりが合わなかった。歴史は好きだったが、近世、近代に関心があった。さらに学びたかった人類学が諦められず、まだ当時は少なかった、人類学が学べる埼玉大学への転学を考えていた。アフリカの人類学で著名な長島信弘に会うためにアポもなく埼玉大学を訪問した。しかし、長島は不在で、別の教員が対応してくれた。この人も有名な人だったが、あまりいい印象を受けず、転学はあきらめた。後に、同氏と中部大学で同僚になろうとは、その時は思いもしないことだった。3年生になると東京のIT企業(当時そういう言葉はなかったが)に転職した兄から、就職情報が送られてきた。家庭の事情から、日本企業は採用してくれないだろうと判断した私は、兄の勧めで外資系企業を受験し、日本で一番古い外資系コンピュータ会社に合格した。人類学はあきらめたが、未知の地への関心は継続していた。卒業論文は、『北からの使者』と題し、日本海を巡る古代中世の交流史を採りあげ、詩人安藤冬衛の「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った」を巻頭に掲げた。これが、私が書いた最初で最後の論文となっている。起伏はあったが、多くの人の厚意や刺激に恵まれた学生時代だった。(敬称略)※2015年2月6日~27日、本学民族資料博物館で、「日本人が残した写真絵葉書に見る100年前の東南アジア 付アフリカ」展を開催します。科学研究費補助金(基盤C)(2012~2014)及び中部大学特別研究費A(2012~2013)による「南洋における日本人社会の形成と変遷 在日外国人との共生の一助として」研究の成果公表です。ご覧いただければ幸いです。野市の教育委員会までクレームをつけに行ったら、担当者の人がカツ丼をご馳走してくれながら、入学してからでも奨学金は受給できると慰めてくれた。授業をすっぽかしたので、心配した担任は、母親に電話してくれていた。人類学に目覚めた私は、京都大学を第一希望に考えていた。そのため、当時KJ法などで著名だった東工大教授で文化人類学者の川喜田二郎に会ってみようと思いたち、東工大で教員をしていた叔父に仲介の労を依頼した。バンカラ気取りの私は下駄履きで上京し、川喜田に面会したが、人類学を学ぶのならば東大がいいと、意外な回答だった。東大には泉靖一や寺田和夫がいたが、私の関心は彼らのフィールドの中南米からは遠ざかっていた。下駄と言えは、ほぼ3年間、冬も下駄履きで通学した。私の実家は標高800mを越える高地にあり、松本まで50分間の汽車通学だった。最寄りの駅は近かったが、松本駅から高校までは徒歩で20分間。マイナス10数度のなかを下駄履きで通ったら、指先に水疱ができた。軽度の凍傷である。さすがに焦ったがこれも耐寒訓練とやせ我慢を通し続けた。大学紛争のさなか、東大と東京教育大学の入試中止が決定した。京大を第一志望にしていたが合格の見込みはなく、阪大に変更したが、大方の予想通り不合格だった。二期校は大阪外大に出願していたが、受験せずに自宅浪人になった。当時今西錦司は、岐阜大学学長になっていた。明治時代の苦学生は書生をしながら学業を続けたと、聞いたことがあったので、今西に「書生にしてほしい」と、手紙を書いた。今西からは、「私は静寂の中に思索を深めたいから、何卒ご放念ください。頑張って大学を目指してください」と、丁寧な返信があった。今西には生前に一度しか会うことができなかったが、それは大学入学後、今西が富山に講演に来たときだった。講演後に『日本山岳研究』にサインをしてもらった。研究者育ちではない私には、師と呼ぶ人はいないが、あえて最も影響を受けた人物をあげるとすれば、今西錦司だろう。2年目も志望校を失敗した私は、やっと富山大学文理学部人文学科国史学専攻に合格した。落ちれば、国家公務員初級職員として東京外国語大学図書館勤務が決まっていた。大学入学祝に母は広辞苑を買ってくれた。ところがその2か月後に、広辞苑の第二版が販売された。私は岩波編集部に「高価な辞書の販売時期を明示せず、旧版を買わせたのは道義に反する」と、抗議の手紙を送った。岩波からは、「新版と交換するから送り返してくれ」と連絡がきた。旧版を送付すると今度は、「両方揃えていた方が勉強になる」と、新旧2冊とも送付してくれた。当時出版社に勤務していた兄から聞くと、玉井乾介と言う業界では名前の知られた役員からだった。広辞苑については、後日談がある。私は浪人中から郷土史や江戸期の儒学者、国学者の系譜になぜか関心を持っていた。大学入学後も人名事典や広辞苑などを調べながら、系譜図を作っていた。江戸時代に那波魯堂と言う儒学者がいたが、広辞苑では魯堂が那波活所の二男となっていた。自作の系譜図から、活所と魯堂は同時代には生きてはいないことを私は知っていた。人名事典からの明らかな引用ミスだった。私は編集部に誤りを指摘し、その後魯堂は活所の後裔と訂正された。広辞苑を訂正させた大学生はそうはいないだろう。大学では山岳部には入らなかった。仕送りは期待できず、ようやくもらえた奨学金(8,000円受給、内3,000円返済)とアルバイトで自活しなければならなかったからだ。授業料高校卒業時に、今西錦司からもらった「書生ご放念を」の返信はがき

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