GLOCAL Vol.6
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2015 Vol.62015 Vol.62015 Vol.64と『授時暦故』とを比べてみると、構成はたがいに前後しているものの、説明や計算例はほとんど同じである。ところどころ一致する文章もある。それにもかかわらず、黄宗羲は『授時暦故』で邢雲路にも周述学にも言及していないのである。先行する著作を用いて文章を書くのは普通のことだし、その場合、先行する著者をいちいち明記しないこともかつては多かった。しかし他人の著作に剽窃の疑いをかけておいて、自分でほとんど同じことをするとはどういうことだろう。細かいことかもしれないが、私はこのことがずっと気にかかっていた。『授時暦故』はどこまで黄宗羲の著作といえるのか、これでははっきりしないからだ。残念ながら、文津館所蔵の写本『授時暦故』にはこの疑問に対する手がかりはなかった。いままで知られていなかった記述は見出されたけれども、黄宗羲自身の著述だという証拠はいまのところない。ただ、印象としては、黄宗羲に対する私の疑念は少し晴れた。というよりも、文津館に何度も足を運ぶうちに私はこの問題をあまり気にしないようになった。閲覧室に席を占め、変色した本をめくり、細筆で丁寧に墨書された文字を読む。その文章は、知られているかぎりそこにしか記されていないものだ。本当の著者を確かめることができればそれに越したことはないが、黄宗羲の著作として通用している書物の上にそれは残されている。それで十分なように思えてきたのである。長年の疑問がこんなふうに消えてゆくとは、われながら想像していなかった。あるいはこれも今回の北京滞在の収穫といえるかもしれない。引用文献唐順之『重刊荊川先生文集』巻7「与万思節主事」.黄宗羲『明文海』巻176「与万思節主事書」評語.梅文鼎『勿菴暦算書目』郭太史暦草補註.劉鈍「郭守敬的《授時暦草》和天球投影二視図」『自然科学史研究』1-4(1982).れは授時暦そのものの理解にも寄与するところがあるかもしれない。授時暦はたいへん優秀な暦法だが、現在でも未解明の部分が残されているように思われるからである。2013年夏から1年間北京で生活することになった私は、少し落ち着いてきた9月のある日、文津館に出かけた。宿舎からほど近い展覧館路でバスに乗り、北海で降りる。厳重に警備された中南海の入り口の対面に文津館はある。大きな門をくぐり、緑色の瓦が美しい2階建ての建物に再会する。『授時暦故』を見にここに来たのは実は2度目だ。2009年12月に来たときは、文津館は修理のため閉館中で、閲覧はおろか建物にも入れなかった。かつては四庫全書が収められていた由緒ある建物だから仕方がない。いつ開館するのかあたりの関係者らしい人に聞いてまわったが、来年の2月だったり、あと数年かかるといわれたり、一向に要領を得なかった。幸い2013年夏までに修理は終わっており、私はこの度ようやく『授時暦故』を目にすることができた。閲覧室は、少しうす暗いとはいえ、雰囲気は悪くない。古籍を見る人しか来ないので閲覧者は多くないが、かといって閑散としているわけでもない。一言でいえば居心地がよく、じっさい文津館は北京植物園と並んでこの後私がもっとも頻繁に訪れる場所になった。たいてい午前中に別の用事を済ませ、軽く食べてからバスで来る。閉館は17時だが、16時半をすぎるとそろそろ出る支度をしなければならない。帰りはいつも歩く。空気がいい日は正面にみごとな夕陽をみることができる。『授時暦故』を読む私は文津館に通い、他の資料を閲覧するかたわら、時間が余ると『授時暦故』を読んでいった。いずれ複製をつくってもらうにしても、せっかく通えるところにいるのだからせいぜい現物で目を通しておこうと思ったのである。善本(貴重書)ならマイクロフィルムで見なければならないところだが、『授時暦故』は普通古籍だから現物が出される。決まった曜日のだいたい同じ時間に私が現れると、閲覧室の係員は、取り置きしてくれていた『授時暦故』を黙って手渡してくれるようになった。『授時暦故』は予期した以上の内容を含んでいた。写本には嘉業堂叢書本に収録されていない部分があり、そこには授時暦に関して私の知るかぎり他のどの書物にも見られない考察が展開されていたのである。黄宗羲によって書かれたものか、あるいは後で誰かが追記したものかはこれから明らかにしなければならない。しかしいずれにしても、今回北京で得た資料の中では最も重要なものといっていい。一方、期待していた附録の『授時暦草』はそれほどでもなかった。研究・教育面でも、生活の面でも、北京での私の勘はどちらかといえばよく外れた。文津館の写本『授時暦故』に期待していたことはもうひとつあった。黄宗羲は別の著作の中で、暦学に関する近年の研究には他人からの剽窃があると述べている。疑いをかけられた一人は先述の唐順之、もう一人は邢雲路という明末の学者である。黄宗羲の見るところでは、この二人はいずれも周述学という人物の所説をあたかも自分の説のように述べているという。暦学に関する唐順之の著述が現存しないことはすでに述べた。一方、邢雲路と周述学の著作はそれぞれ今日に伝わっている。だが、いま両者を見比べてみても、少なくとも私の目にはそれほど似ているようには見えない。黄宗羲は周述学を非常に高く評価し、周述学伝まで書いているのだが、そもそも過大評価している感じがなくもない。もっとも黄宗羲が見ているのは現存するものとは別かもしれないし、あるいは著作の比較以外に何らかの根拠があるのかもしれない。黄宗羲の見立てがどれほど正当かはいまはおく。むしろこれに関して奇妙に思われるのは、邢雲路の著作の一部が他ならぬ黄宗羲の『授時暦故』ときわめてよく似ていることである。邢雲路の著作『古今律暦考』72巻のうち、巻67以下の諸巻は「暦原」と称し、授時暦の方法の考察に充てられている。これ

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