GLOCAL Vol.6
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5国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻准教授一谷和郎(ICHITANI Kazuo)2001年、慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程単位取得満期退学。中国近現代史、政治史専攻。中華民国史、中国革命史を主たる研究対象とするほか、日中関係史に関心がある。著書に、『近代中国の地域像』(山川出版社、共著)、『救国、動員、秩序-変革期中国の政治と社会』(慶應義塾大学出版会、共著)、『岐路に立つ日中関係』(晃洋書房、共著)などがある。貨幣からみた中国革命ペーパー等の上質紙やインクは、危険を冒して日本軍が占領する天津や北平(北京)で買いつけられた。高い技術を要する印刷工については、共産党の政治的支配が及ばない都市で募集するほかなかった。最初に技師として革命根拠地に迎えられたのが張裕民という人物である。1906年、河北省南宮県に生まれた張裕民は、幼少の頃父を亡くして勉学の機会を失い、家族の面倒をみなければならなくなった。紆余曲折を経て、河北省南部の邢台県にある石版印刷局で製版や印刷の技術を学び、3年間精進した。しかしいつしか世間の悪習に染まり、ペンと彫刻刀を用いて地方銀行の紙幣の偽造に手をつけ、入獄する身となった。盧溝橋事件の後、日本軍が邢台へ侵攻した際、運よく出獄した張は、そこで日本人商人目当てのブローカーとなった。そのような折、張は共産党シンパであった知人を通じて八路軍が印刷工を求めているのを知る。1938年、彼は共産党の求めに即応し、ゲリラ根拠地の太行山脈に向かった。根拠地で張は八路軍師団司令部の供給部長に大歓迎され、印刷所長の名義を与えられた。その後、張は技術訓練班を作り、責任者として班員の指導に当たりつつ、冀南幣各券のデザイン、原版制作、インクの調合と色彩統一を一手に引きうける技師となった。冀南幣の図案には、共産党がかつて左派路線を歩んでいた時期に発行した中華ソヴィエト共和国国家銀行券に描かれたレーはじめに1949年に中国共産党が政権を握った意味について、これまで多くの研究者がさまざまな視角から論じてきた。かつては土地革命の成果やナショナリズムの動員を共産党勝利の要因とする議論が盛んであったが、今ではそれらの見解を手放しで肯定する研究者は少ない。なぜならば、実証研究の進展により、中国革命が共産党の一貫した指導や戦略のもとで推進されてきたものであるとは必ずしもいえないことがわかってきたからである。現在の中国革命史研究では、各時期、各地域における共産党の政策の断絶性を強調したり、革命を組織する側とその履行を求められる側の両者がともに、状況や場面によって革命に対してさまざまな態度をとっていたことを指摘することが多くなっている。要するに、共産党が権力を確立した原因について、白黒をはっきりさせる革命史観を越える解釈が求められているものの、中国革命の像を結ぶことは一層容易でなくなっているのである。中国共産党の革命と貨幣革命現象は、政治の変動と社会の変化が同時に進行するとき発生する。両者の相互作用について考えるための1つの素材として、筆者は共産党の革命権力が発行した貨幣に注目し、それとの関連で党の支配がどのようにして社会に浸透したかを論じてきた。写真は共産党の革命根拠地が1939年に発行し、流通させた冀南幣という紙幣である。冀南(河北省南部)を含む華北一帯が、日中戦争から内戦期までの中国革命が進行した時代において共産党の一大根拠地であったことは、八路軍のエピソードとともに日本ではよく知られた事実であろう。もっとも、当時の中華民国の政権保持者は国民党率いる蔣介石であり、その政府は法幣という立派な法定通貨を有していたため、蔣介石にしてみれば冀南幣は自らの貨幣主権を脅かす偽札同然のものであった。しかし共産党は、日本の侵攻によって生みだされた権力真空に乗じて華北に二重政権的状況を創りだし、軍隊給養あるいは経済建設を目的として大真面目に紙幣を発行しつづけたのである。なお、現在中国で用いられている人民幣は、冀南幣を基盤として1948年に発行開始されたものである。とはいうものの、印刷能力を欠く共産党のゲリラにとって、当初紙幣の発行は難題であった。印刷機器には八路軍の師団司令部がもつリトグラフがあてがわれ、ドーリング写真:冀南銀行50元紙幣(1939年)

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