GLOCAL Vol.6
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2015 Vol.62015 Vol.62015 Vol.66もいた。しかしそれとて、たとえ一時にせよ人民が生活を潤せたという事実に違いはない。共産党が打ちだした政策のある部分は、それを通じて社会を思うままに改造しようとする党の思惑とは裏腹に、革命の履行を求められた側では相変わらず日常のささやかな願望を満たすためのものに置きかえられていた。このように、革命根拠地の農民は生産資金のほか必需品の購入やさまざまな支度金として冀南幣を使っていた。冀南幣は革命根拠地のなかで物資の流通を円滑にし、あるいは日本側占領地域との交易の媒介者として、社会に浸透した。貨幣を必要とする農民に冀南幣が定着するにつれ、農民はそれによって共産党と結びつけられることになったといえる。他方で、共産党は農村における貨幣の循環を通じて社会に権力を浸透させることができた。史料の示すところでは、日中戦争の対峙段階以降、冀南幣は共産党の支配を越えて混沌地域や日本側占領地域でも受けとられる貨幣となっていた。おわりに以上、貨幣を媒介にして中国革命における共産党と民衆の境界面について論じた。両者の相互作用の観察から、少なくとも中国革命が、支配-従属や革命-反革命、侵略-抵抗といった単純な対立を解消する物語ではなく、敵との妥協や革命への裏切りを含んだ複雑な事実の連鎖であったことに気づかされるのである。引用文献張裕民自述、賈章旺記録整理「我要跟着八路軍共産党走」武博山主編『回憶冀南銀行九年』北京:中国金融出版社、1993年。一谷和郎「日中戦争期晋冀魯豫辺区の貨幣流通」山本英史編『近代中国の地域像』山川出版社、2011年。ニン像はみられず、地域の景色や人々の素朴な生活風景がそれに代わって表現された。また、共産主義を宣伝し革命を訴えるスローガンも紙幣から消えていた。紙質は劣っていたにせよ、精巧な図案を持つ冀南幣の多数の原版は、張を中心にして制作されたものであったと考えられる。発券という機密業務に関わることになった張裕民は、しかしながらその経歴からして革命組織者の意にかなう人物ではなかった。彼は共産主義者ではなく、罪を犯したアウトローであり、対日協力者すなわち漢奸(中国人の裏切り者)でもあった。したがって張は、1943年に毛沢東が主導した整風と称するイデオロギー闘争の重点対象となった。おそらくそれ以前から、政治的態度を問われていた人物であったと思われる。あるとき、張は党に対して次のような態度表明を行なっている。すなわち、「私は以前何でもやったが、何をやってもうまくいかず、活路を見出せなかった。……共産党についていけば、必ずうまくやれるに違いない。ここでは私の給料は高く、日常的に馬にも乗れ、さらにコメやムギを口にすることができる。……八路軍と共産党についていけば、活路を見出せることがわかった」というものである。そこには、イデオロギー的共感や民族的正義感といった面で共産党に参加したわけではない、生きていく手立てを根拠地政権に求め、思いがけず漢奸から共産党協力者になった都市の一手工業者の姿がみられるのである。中国共産党の支配の浸透1937年7月の日中戦争勃発後、華北では三つ巴の通貨戦が展開されることになったといわれる。国民党、共産党、日本軍の3つの政治勢力によって華北が必争の地とされ、それぞれ自己の貨幣を流通させつつ支配を拡大しようとしていたためである。ところで山岳地域を主要な根拠地とする共産党支配下の農民は、柿、桃仁、棗、羊毛、油といった山村産品に生活の大きな部分を依存していた。それらは冀南幣によって代表される革命根拠地の物資であり、いくつかの通商地点を経由して日本側占領地域へ大量に移出販売される商品でもあった。そこで彼我の間の交易に重要な役割を果たしていたのが投機的な商人たちである。共産党自身、工商管理局なるものを立ちあげ、商業とくに日本側占領地域との交易を統制する意思をもってはいた。しかし、旧慣に依る商人の活動をすべて代行しうる能力をもってはいなかった。敵か友か不分明な、右でもなく左でもない中間に位置する混沌地域では、使用される貨幣も日系通貨、法幣、冀南幣とさまざまであった。日本側占領地域との交易に役割を果たした商店主は、為替を操りながら共産党地区の山村産品を低価格で買いつけていった。彼らは農民にあらかじめ手付金を渡したうえで山村産品を買いつけ、日本側占領地域の邯鄲や安陽といった都市でそれらを先物取引の商品として売りだす投機商人であった。このような資本主義的方法にしたがい行動する彼らは、共産主義者にしてみれば、旧社会の搾取者として忌むべき存在でもあった。たしかに、所期の収穫が得られなければ農民は莫大な借金を抱える可能性があったであろう。その意味では、投機的な商店主は共産党支配下の農民を搾取する存在であったかもしれない。しかしながら、共産党員の心配をよそに、農民は商店主から冀南幣を受けとって糊口を凌いでいたことも事実である。つまり、農民によって冀南幣は、農業の端境期において食糧や日用品を調達するための貴重な貨幣として受けとられていた。1943年以降、農村金融を中心に共産党地域政権による社会への資金投下が際立つ。共産党が人民に金を貸しつけるようになったということである。冀南幣を発行する冀南銀行の農業融資では9割が回収されたとされるが、当然ローンを支払えない農民も現われてきた。また、貧農を中心とする「基本大衆」ではない、生きていく手立てのある者が融資金を受けとることもあり、現にある村長は春耕向けに融資された貨幣を裕福な親友とともに懐にしてしまっていた。妻を娶るための支度金として共産党の農業融資を利用した農民

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