GLOCAL Vol.7
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420世紀初頭フランスにおけるフェミニストの課題ラディカル派M.ペルティエを中心にするために…。」現代なら「男装」を自由や平等と直結させることなどありえないが、ペルティエの時代には「それは自然に反することで、フェミニズムに害を与える」とフェミニスト仲間すら激しく非難する反社会的行動であった。ちなみに、フランスでは1800年11月のパリ警察令「異性装に関する勅令」によって、健康上の理由で許可された場合を除いて、女性が男性の服装をすることは禁じられていた。20世紀に入る頃にはこの警察令は事実上無効となっていたが、服装といった日常的ふるまいのコードが「男/女」の構築に大きな役割を果たしていることを、ペルティエは決して看過しなかったのである。普遍主義の立場に徹する「女性性」を前提とするフェミニストたちの権利要求に対して、ペルティエはすべての人間の同等の権利を求めた。この点でペルティエは、フランス革命の原理を継承し、その徹底を求める19世紀フランスの諸革命思想・運動の流れの中にある。「女性の権利要求を…社会的有用性に根拠をおいて行うべきではない。その正当化の根拠をどこか別の処に求めることなど必要ではないのだ。その要求はそれ自身で正当化されうるものである。」とペルティエは書いている。しかし、「人権宣言」の「人」が白人・男性・第一波フェミニズムの時代にあって20世紀初頭はフェミニズムの歴史において「第一波フェミニズム」と言われる女性運動が高揚した時期である。その中心は女性参政権運動であり、とくに英米での盛り上がりが注目されてきた。しかし、フェミニストの要求は参政権実現に留まらなかった。「人権宣言」の国フランスでは、性に関わらない個人としての自由・平等を求めて、性の本質論を退け、あらゆる面での差別や抑圧を告発し、様々な社会運動・社会変革の闘いに参画したフェミニストたちがいた。「差異の中で穏健に」女性の「女らしい」政治参加と社会貢献を主張する主流派フェミニストから、大いに嫌われたラディカル派フェミニストとして、ここではマドレーヌ・ペルティエ(Madeleine Pelletier 1874~1939)を取り上げよう。人は女に生まれない、女になるのだ『第二の性』を著したシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、「女」が社会的構築物であることを論証して、1960年代末にはじまる「第二波フェミニズム」、ウーマンリブの運動に大きな刺激を与え、「ジェンダー」概念の形成に貢献したが、すでに20世紀初頭においてペルティエは、「女はつくられる」ことを心理学や女子教育などの観点から主張していた。 パリ2区の労働者街の極貧家庭に生まれ、初等教育を終えただけのペルティエは、独学でバカロレアに挑戦し、パリ大学で医学を学び、フランス初の公立精神科病院女性インターンとなった。「女性のいわゆる心理学的生理学的劣等性について」や『娘に対するフェミニスト教育』等の論文・著作において、ペルティエは幼少期からいかに「女性性」がつくられていくかを論じ、社会的差別・抑圧の根拠とされる性の本質論を否定した。私の服は「自由・平等」を告げるペルティエは、社会が強要する「女らしさ」を断固拒絶した。それを常に表明する手段が「男装」であった。革命家と呼ばれる女性たちもが裾を引きずるドレスをまとい、花飾りのついた大きな帽子を揺らして演説する時代にあって、ペルティエは髪を短く刈り上げ、糊のきいたカラーにネクタイを巻き、男物スーツを着込んだ。背が低く太っている自分には似合わないと嘆きつつも、ペルティエは「男装」をあえて選んだ。「修道女がキリスト像を身につけ、革命家が深紅の野バラを飾るように、私は自分の思想を外に表したい。…料理エプロンを着けた奴隷女と違って、髪を短くして襟カラーを付けよう。私が自由を欲することを表明し宣言国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 特任教授見崎恵子(MISAKI Keiko)神戸大学大学院経済学研究科博士課程後期課程退学。修士(経済学)。専門は西洋社会経済史、女性・フェミニズム史。西欧の食生活史や家族史から主要研究テーマをフランス近代における女性運動へと移し、現在は第三共和政下のラディカル派フェミニズムの主張に強い関心がある。フェミニズムと社会主義・アナキズム、労働運動、平和運動などとの関係を、現代的課題を視野に入れて検討している。

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