GLOCAL Vol.8
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4「保童円」について思われる売薬「保童円」に注目したい。「保童円」は名古屋やその周辺地域のみに存在していた薬ではなく、広く一般的に知られていたようである。「保童円」は名古屋と周辺地域以外では、特に寺院と関係があるわけではなく、吉岡信がまとめた売薬の一覧表にも同名の薬が存在するが、特に寺院との関係は見られない〔吉岡 1989〕。このことから「保童円」と寺院の結びつきは、この地域の特徴と見て良いだろう(一覧表参照)。次にこれらの「保童円」について見ていきたい。 法雲山金剛寺は、万屋町(名古屋市中区)に位置する臨済宗の寺院(妙心寺末)である(『尾張名陽図会』)。建立年は明らかでない。『金鱗九十九之塵』には「名薬保董円」として「本尊薬師仏の御夢想也」とある。高力種信による『尾張名陽図会』(文政年間成立)には、「保童円」とあり、「本尊薬師仏の夢相にて製せしといふ」と述べられている。いずれも、本尊薬師如来の夢想により授かったという由来を持っており、断言はできないが「保董円」と「保童円」は同じ薬と見て良いだろう。 桂昌山久法寺は、薬師如来を本尊とする臨済宗の寺院(妙心寺末)で、現在は蔭凉寺という名称となっている(名古屋市東区)。山門に鶏の瓦が配置されていたことから「鶏薬師」と呼ばれていた。『尾張名陽図会』によると、久法寺には次のような由来がある。「元禄二年海東郡千音寺村大間山久法寺といふ禅家の庵跡を引きうつして一寺となし、中島郡はじめに 筆者の専門は民俗学で、特に民間療法、なかでも寺院が販売する薬に関心を持っている。本稿では、名古屋とその周辺地域で販売されていた寺院売薬「保童円」について、民間療法との関わりを視野に入れながら紹介する。売薬に関する研究は、富山売薬や越後の毒消しなど有名なものは数が多いが、この地域の売薬に関しては『愛知県薬業史』〔深谷1965〕がほぼ唯一のものと言って良いだろう。むろん、民俗学から検討を加えたものは皆無である。本稿では、断片的に知られている名古屋における江戸時代の寺院売薬「保童円」について整理したうえで、予備的な考察を民俗学的視点から進めていきたい。寺院売薬の歴史 清水藤太郎は、売薬が具体的にいつから始まったかについては判然としないとするものの、「売薬は昔は医師、神官、僧侶の如き社会上地位のあるものが創製し、家伝秘法、神仏の託宣等と称して世人の信用を得るにつとめた。従って多くは寺院等から販売された。」と述べ、売薬初期は、寺社などがそれを行っていたとしている〔清水 1949 171〕。これに関して、宗田一はその時期を中世以降とし、荘園制解体に伴う経済基盤圧迫への対応策として寺院が始めたとしている〔宗田 1993 25〕。 売薬が隆盛を極めたのは、幕府によって売薬がさかんに奨励された享保期頃とされている〔清水 1949 193〕。その形態は、富山売薬に見られるような藩が関与していたものから、香具師が売るもの、寺院や山伏など宗教者が売るもの、家伝薬など多様であった。明治時代にはいると「売薬取締規則」により宗教的要素を持つ売薬は禁止されたが、事実上は黙認状態であった〔清水 1949 200〕。家伝薬や寺院売薬に決定的な影響を与えたのは、昭和51年(1976)のGMP(医薬品の製造管理および品質管理に関する基準)実施である〔越川 1999 67〕。GMPは、それに明記はしていないものの、実質的に製薬工場での製造を義務付けており、これにより寺院売薬の多くが消滅する運命を辿った〔越川 1999 70〕。寺院売薬と「保童円」 江戸時代には、名古屋においても多くの売薬店が軒を連ねていたことが知られている。天保一五年(1844)成立の『尾張名所図会』には、様々な売薬が紹介されていることからも、そのことがうかがえる。筆者は『愛知県薬業史』に紹介されているものや、その他の資料から名古屋を中心に売薬を抽出、整理した。紙幅の関係上それらの詳細は割愛するが、本稿ではそのなかから寺院が関与していると国際人間学研究科 言語文化専攻 准教授越川次郎(KOSHIKAWA Jiro)2003年、成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程後期単位取得退学。日本民俗学。民間医療や売薬を主な研究対象としている。ここ数年、木曽川を学際的に研究する「木曽川学」に参加し、専ら木曽川沿岸地域の民間信仰について実地調査を積み重ねていた。昨年から、寺院売薬の研究を再開し、仕事の合間に寺院で販売されている薬を訪ね歩いている。

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