GLOCAL Vol.9
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2国際人間学研究科 国際関係学専攻 講師大澤 肇(OSAWA Hajime)東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。国立公文書館アジア歴史資料センター調査員、(公財)東洋文庫研究員、ハーバードイェンチン研究所客員研究員等を歴任。専門は中国・台湾を中心とした地域研究(具体的には中国近現代教育史)。歴史史料学、特に史料デジタル化とそれに伴う諸問題にも強い関心を持つ。著書に『新史料からみる中国現代史』(東方書店、共著)など。近代中国における政治教育~その機能と限界民政府時期の新生活運動では新生活運動促進会や社会教育団体が民衆の訓練を受け持っていたが、それが戦時の重慶国民政府時期になると、国民学校制度に統合された。この制度は、市場町や自然村のレベルと国民学校=初等教育機関、そして社会教育機能を一体化させ、場合によっては行政人員との兼任を認めたものである。さらに国民学校を中心国民学校や県教育局の下におくことで、地域社会における、政治・教育・文化の中心となることを目指してつくられた制度であった。これは日中全面戦争という状況下における、重慶国民政府の総力戦体制構築の一環であり、それが日中戦争後の統治にも使われたのである。そして同時期の汪兆銘南京国民政府における清郷運動でも、教員が重要な働きをしていた。 また中華人民共和国政府統治下における土地改革や政治運動への動員も、政府とイデオロギー的に親和性の無い教員・学生層への思想教育という側面がある一方で、彼らを動員することで地域社会の政治秩序を形成・再編する働きがあったといえる。政治教育に対する社会の反応 しかし、政治教育に対する社会の反応について考察をしてみると、イデオロギー教化や政治宣伝が必ずしも全てうまくいったわけではないことがわかる。例えば、多くの学生にとって中等学校への進学目的は都市の精神・近代中国における政治教育をどう考えるか 日本において、中国の学校教育については、過去についても現在においても、政治教育、すなわち政府の教化・宣伝の側面(いわゆる「抗日教育論」、「反日教育論」)が強調されるのであるが、それはどの程度まで真実なのであろうか。 被教育者は独自の論理、認識、態度を以て教育を受容(需要)する、という教育社会史の知見からすれば、彼・彼女らは、政府側の教育推進にどのように呼応し、どのように教育を受容(需要)していたのか、すなわち当該時期における学校教育の社会的位置をも解明する必要がある。なぜならば、執政党(政権政党)のイデオロギー色が強い学校教育を政府側が推進していたにしても、それを民衆・社会側が受容しなければ、学校教育の発展・推進はあり得ないからである。 本稿では、現代中国につながる政治体制―党国体制という執政党が国家・国民を代表し得るというイデオロギーと統治システム―が形作られた1928年から1958年までを対象として、当時の教科書、アーカイブ、教育関係の雑誌や学生向けの雑誌などを利用し、中国における政治教育の実態と社会での反応を、「学校教育の発展・浸透」という観点から考察する。政治教育の実態 1928年以降の中国、すなわち党国体制下での学校教育の特徴は、独立した政治教育科目を含む政治教育の実施であり、各時期の政府における政治教育には共通性が見られた。 第一に政治教育の内容として、執政党のイデオロギー(蔣介石南京国民政府時期や汪兆銘南京国民政府時期は三民主義、中華人民共和国時期は社会主義)を国家の公定イデオロギーとして宣伝するという意味での共通・連続性が存在した。第二に「党義」、「三民主義」、「政治」という政治教育学科ばかりでなく、隣接科目、すなわち語文、歴史、地理、公民科などにも関係の深い内容が掲載されるという様式である。このように各時期(蔣介石南京国民政府時期、汪兆銘南京国民政府時期、中華人民共和国初期)を通して、学校教育は政府側からは、政治的なイデオロギーの宣伝の場として用いられていたのである。地域社会統治への活用 さらに党国体制下における学校教育の特徴として、蔣介石南京国民政府、汪兆銘南京国民政府、中華人民共和国政府を通して、教育事業を地域社会把握の1つの拠点としようとした企図が存在したことがあげられる。 その典型的な一例が、1940年代に形成された国民学校制度であった。蔣介石南京国

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