GLOCAL Vol.9
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2016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.92016 Vol.97義和団事件と列強の中国政策事件発生の背景の1つである、反キリスト教運動に関しては、キリスト教国ではない日本にとって、本来あまり関係のない話であったはずである。おわりに 先行研究では、各国が義和団に直面することで、中国における民族運動の台頭を認識し、個別での中国政策に限界を感じたことが指摘され、共同行動という妥協策を見出したことが述べられている。しかし、この列強の共同行動は、義和団事件への対応に限った一過性の方策ではなく、辛丑和約後にはある程度制度化された協調体制へと発展した。その後、1930年代には形骸化していたものの、日中戦争から日米開戦の時期まで存在していたことは重要な点である。つまり、この協調体制をかりに維持・発展させることが可能であったのであれば、中国における各国の門戸開放・機会均等が成立し、後に日本を独自行動へと向かわせない可能性もあったということができる。そこで本研究では義和団をめぐる列強の対応を検討することで、どのようにして列強の中国政策が単独から協調へと変化したのか、中国に対するどのような認識の変化があったのか、さらにこの体制にどのような矛盾が存在していたのか明らかにしていく。義和団事件の発生 義和団事件は当初、反キリスト教運動を中心とした排外活動を行う義和団と、それを鎮圧するために華北へ出動した列強との争いに過ぎなかったが、1900年6月20日、義和団に対して同情的であった清朝政府が列強へ最後通牒を突き付け、翌日には宣戦布告を行ったことによって、国家間戦争へと発展した。事件以前において、列強は互いの権益を侵さないように配慮し、時には利害から協力関係を持ちつつも、基本的には各々が単独で策定した中国政策に則って行動していた。そして、事件当時においても、公使館団が共同行動をとり始めたのは義和団の活動が活発化した後であり、第1次連合軍として北京を目指したシーモア軍も、天津を出発した当初は各国が政治的駆け引きを展開するなど、いまだ列強の中国政策は協調関係にはなかった。列強の共同行動 しかし、列強は、シーモア軍の挫折や勢いの収まらない義和団の拡大によって協力せざるを得ない状況へと追い込まれ、清朝政府からの宣戦布告を受けたことで、単独から協調へと舵を切り、八ヵ国連合軍を編成して共同行動の下で事件へと対応していった。また、北京にて包囲されていた公使館区においても、イギリスのマクドナルド公使や日本の柴五郎中佐の指揮下で共同の籠城戦を展開し、八ヵ国連合軍の北京到着までの2ヵ月弱の間、耐え抜くことに成功した。これらの協調体制、特に北京籠城戦に関しては、義和団と清朝による包囲という危機的な状況下から必然的に発生した体制であった。しかし、列強の協調体制は、辛丑和約の結果策定された北京議定書の中で、一部の華北地域での駐兵権が認められたことから、ある程度制度化された体制へと発展し、以降各国はこれを基本として行動し、列強の中国政策は協調したものに変化した。日本の対応 また、日本は義和団事件を列強と対等的な外交へのデビュー戦と捉え、積極的に行動を起こし、八ヵ国連合軍の中では南下政策をとっていたロシアと並ぶ師団級の大兵力の派遣を行い、これはロシアと対立関係にあったイギリスから歓迎された。そして、この事件対応の積極的な姿勢から、末席ではあったものの、列強の一員として迎えられ、中国における協調体制にも参加した。しかし、この日本の積極的な姿勢は、中国政策において協調へと態度を変化させたことによるというよりも、むしろ事件解決に貢献することで列強に認めてもらいたいという願望から出たものではなかったか。そのように捉えると、日本と列強の間には、義和団事件に対する認識に相当の隔たりがあったと考えられる。実際に、国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程1994年愛知県生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科(歴史学・地理学専攻)博士前期課程在学中。専攻は日本・中国近代外交史。卒業研究では、日本の第一次世界大戦への参戦交渉に関する研究を行った。現在では、卒業研究の中で戦前日本の外交関係上、日英同盟が重要な存在であったことが再認識することができたため、その日英同盟が締結されることの引き金となった義和団事件に焦点を当て、どのような国際外交が展開され、それに日本がどのように関わっていったのかを研究している。横地佑紀(Yokochi Yuki)

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