GLOCAL Vol.10
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2017 Vol.102017 Vol.103 新聞各紙は、昨年11月にタイから元留学生の妻と長女が訪日し、揚輝荘で当時の日本人の同級生と出会った様子を報じている。 祐民の国際経験は、1909年に渋沢栄一を団長とする渡米実業団のメンバーに30歳の若さで加わったことから始まる。この3ヶ月間の視察経験が、翌年に株式会社いとう呉服店としてデパートを誕生させることになる。 祐民は、名古屋商工会議所の初代会頭時代の1931年には、中国視察団の団長として1000名を率いて中国を訪れた。 妻の貞を失った後、揚輝荘に受け入れた千代とともに、1934年にはビルマ、シャム、インドに巡礼に出かけた。同行者には、インド人のハリハランと写真家長谷川伝次郎がいた。ビルマでは元留学生と再会し、インドではオッタマと合流しながら、詩人タゴールにも面会した。 祐民は道中、長谷川に写真と16ミリフィルムの撮影を指示した。帰国後、3時間余にわたるフィルムは求めに応じて各地で上映され、祐民の講演も150回に及んだ。 祐民はこの旅行の記録を書籍にして刊行する予定だったが、汽車の中に原稿を置き忘れ、幻の書となってしまった。 長谷川の写真は、『印度』(1939年)と、祐民没後の1941年に、『佛蹟 印度、緬甸、泰国、仏印 故伊藤次郎左衛門氏仏蹟巡拝の記録』の豪華写真集として刊行されている。 私の手許には、松坂屋のご厚意でいただいた、16ミリフィルムをDVDに落とした『昭和9年 印度紀行 佛蹟巡礼第1巻~9巻』の3枚がある。 これらを含め、どなたかに、「南」に目を向けた、東海の「グローカルな人々」の研究を引き継いでいただけないか、と思っている。的だった。ビルマ僧ウ・オッタマとの交流は、戯曲『ビルマの太陽 : オッタマ僧正と伊藤次郎左衞門』で描かれ、著名な写真家長谷川伝次郎を伴ってのビルマ、インド巡礼は、長谷川の手になる二冊の写真集に収められた。 練習艦筑波に便乗して南太平洋諸国を訪問し、帰国後24歳で刊行した『南洋時事』で、一躍名を挙げた志賀重昂(1863~1927)は、岡崎市出身の地理学者でもあり、ジャ-ナリスト、評論家でもあった。日本ライン、恵那峡の命名者でもあり、『日本風景論』や『世界山水図説』などを残した志賀は、世界を三周したといい、当時のインテリとして、南アフリカを2度にわたって訪問している。 自伝『最後の殿様』の著者徳川義親(1886~1976)は、元越前藩主松平春嶽の5男に生まれ、1908年に尾張徳川義禮の養子となり、義禮の死後尾張徳川家19代目を継いだ。1921年、転地療養のため、マレー、ジャワで狩猟を行い、『馬来の野に狩して』などを著した。朝倉純孝と『馬来語四週間』も執筆し、シンガポールが日本軍の手に落ちた後、軍政顧問としてシンガポールに依願赴任した。 その他、西本願寺法主大谷光瑞の命で中央アジアを探検した橘瑞超(右:1890~1968)、『マレー蘭印紀行』を著した詩人の金子光晴(1895~1975)、また愛知県人ではないが、日暹寺(現日泰寺)住職の日置黙仙(1847~1920)など、東南アジア、南アジア、アフリカに関わった、有名、無名の愛知県人の足跡を紹介する。伊藤次郎左衛門祐民 この企画展では、東南アジアの植物を研究し、『馬来 印度 熱帯植物奇観』を著した三好学(岐阜県出身)や、シンガポールで雑誌『南洋時代』を発行した三重県出身の辻森民三、名古屋の医師で東南アジアを歩いた松波寅吉なども紹介するつもりだったが、最も力点を置きたかった人物は、第十五代伊藤次郎左衛門祐民だった。 伊藤は、名古屋商工会議所会頭を務めるなど、名古屋経済界の重鎮だったうえ、上坂の著や、名古屋市博物館の企画展カタログ『名古屋の商人 伊藤次郎左衛門 呉服屋からデパートへ』、揚輝荘の会が編集した『揚輝荘と祐民 よみがえる松坂屋創業者の理想郷』などにより、よく知られている。 祐民は商人であったため、自ら書き記したものは少ないが、松坂屋については『創立二十年記念写真帖』(1930年)や『松坂屋三百年史』(1935年)などの社史が多数刊行されている。 祐民のものでは、父の伊藤祐良の人生を綴った『祐良傳』(1940年)や、祐民の還暦を記念して関係者に配布された年譜『戊寅年契』(1938年 下右)、戦後に刊行された大著『伊藤祐民伝』(1952年 下左)、『十五代伊藤次郎左衛門祐民追想録』(1977年)などがある。 祐民が、ビルマの僧オッタマからの依頼を受け、ビルマの青少年を預かって教育し、その後、シャム(タイ)などの子弟の教育を引き受け、揚輝荘で育てたことなどは、上坂の著などで、よく知られている。

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