GLOCAL Vol.11
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2017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.115であった。Aが怖いものを遊ぶことができるようになったということは、Aにとって骸骨(怖いもの)が怖いものでもあり、同時に単なるモノでもあるものとなったことを示している。つまり、遊びには、あるものに触れていくという動きと、あるものを見抜いていくという動きが同時に、そして二重に生じているということが言える。 それゆえ、「怖いもの」が遊ばれることによって、「怖いもの」は主体と深く関わるけれども、もはや自分を脅かすものではないもの、に変容したのである。 先に述べたJung,C.G.の観点で考えると、遊ぶことには、入っていく意識と否定する意識の二重の意識が働いているといえる。また遊ぶこととは、触れていく行為と見抜く行為の二重の行為が働いているといえるのである。主要参考文献Caillois, R(1958/1971)『遊びと人間』 多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社、田中秀紀(2015) 遊ぶことの論理、広島国際大学心理臨床センター紀要、13. 29-38.田中秀紀 (2014)箱庭に怖いものを置くプロセス、箱庭療法学研究、27(2)、51-62.ちゃんの場が丁寧に整えられることは、何者にも邪魔されず、まどろみの中で母と一体となり、いつまでも保護され包まれる「赤ちゃん」のあり方にしがみついていると思われる。その一方で、母との一体的で無垢な世界に切れ目が入ってきたことが意識されてきてもいる。イライラや虫や尖ったものを嫌うこともまた、Aにとって無垢な世界を揺るがす怖いもの、攻撃的なものが意識されてきたがゆえに、それを避けようとしているのである。骸骨から目をそらすのは、A自身怖いもの、衝動性を感じてはいるものの、それから目をそらし、無垢なものへしがみつこうとしていることを如実に示している。それゆえAにとって怖いものは、Aを圧倒し、逆にAは怖いものに振り回されるのである。Aにとって怖いものはあまりにリアルであるゆえに、そのリアリティの方がAを凌駕していたといえる。事例の展開 #3・4では描画をし、「真ん中のおばけが左のおばけを棒で殴っている。そこから血が出ている」絵や「かいじゅうの墓をゆうれいがほって骨を盗んでいるのでかいじゅうが怒って火を噴いている」絵など、次々と攻撃的なものが表現された。そして、#6では非常に丁寧に描いた「赤ちゃん」の絵を「持って帰りたい」と主張する。セラピストにそれを制止されると、セラピーからの帰りに「持って帰りたかった」と大泣きしたという。この大泣きは、赤ちゃんの絵を失うことでまさに「母子一体」の世界から分離し、自分の欲求をはっきりと感じる「私」が誕生した産声であると思われた。それを示すかのように、その後の遊戯療法では、Aはセラピストを攻撃し、競い合う遊びを積極的に展開した。 #10ではもぐらたたき、#11では人形を置くバランスゲームに「あぶない~」とAは熱中。Thに「崩れろ~」と言葉で攻撃して大笑いする。#13ではあっちむいてホイの勝者がハンマーで叩き、敗者はグローブで防ぐゲーム。Aはハンマーを持つ前から大笑いし、負けても思わずハンマーを取り「ひゃははは~」と大笑いする。日常生活でもイライラなどの症状がなくなり、朝も起きるようになったという。 そして最終回(#14)では「今までと違うものを作ろう」と箱庭を制作する。Aは触れられなかった骸骨に触れ「お化け屋敷。お化け屋敷やけど、本物のお化けが出る」とさらに灯篭、般若の面、お墓、千手観音を選んでいく。「すごく怖くしないと。怖い道を作ろう。かわいい道じゃなくて。何かいいのないかなー」と制作していく。遊びのリアリティとは Jung,C.G.によると、遊びは無意識の活動と非常に近接しているという。無意識の活動は、日常性を離れた意識の状態であると指摘している。また無意識の過程は説明されてわかるものではなく、実際の行為の中でしか体験されないとも指摘している。 ここで、Aにとっての「怖いもの」に注目してこの事例を検討すると、Aにとって怖いものは、自分のコントロールを超えたものであり、それゆえAは怖いものに振り回され、ありありとリアルに怖さを感じるものであった。しかし遊戯療法の過程で、描画において攻撃的なものが描かれ、次に母子一体を失うことによって、自らの感覚をはっきりと認識する「私」が誕生した。それゆえもぐらたたき、バランスゲーム、ハンマーなど、自らの攻撃性を感じ、セラピストとの間で攻撃性を「遊ぶ」ことができるようになったといえる。 そしてAはまさに「今までと違う」怖いものの箱庭制作に自ら取り組む。この時点で、Aの怖いものに対する態度が大きく変わっていることが示されている。Aは自ら怖いものに対して触れていき、怖いものに対して主体的になっている。さらに、Aの方が怖いものを操作しようとしていることが伺える。このとき、「お化け屋敷やけど、本物のお化けが出る」という言葉は、怖いもののリアリティが否定されていることを示している、つまりAは怖いものが単なるモノ(玩具)であることを見抜いたのである。 怖いものの変容を通じて、怖いものに対して二つの動きが生じていることを指摘することができる。一つは、Aが自ら怖いものに触れていく主体的な動きである。もう一つは怖いものが単なるモノ(玩具)であることを見抜く否定の動きである。そもそもAにとって骸骨(怖いもの)はAを圧倒し、Aを振り回し、それゆえ触れられないほどリアルなもの

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