GLOCAL Vol.11
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2017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.112017 Vol.1171930年代愛媛県新居浜市の工業地域の形成おわりに 瀬戸内海臨海部の工業地域に関する先行研究では、対象地域としては岡山県倉敷市水島地区や広島県呉市などといった山陽地域の研究が多く、かつ、製鉄・鉄鋼業などの重工業中心、及び、戦後の高度経済成長期にみられる石油化学工業に関するものが多くみられるが、愛媛県新居浜市では、戦前の1930年代に住友別子鉱山株式会社出願の新居浜港修築計画から、重化学工業化がみられることが明らかになった。 特に、着目しなければならない点としては、高度経済成長期にみられる石油化学工業中心によってみられる工業地域ではなく、硫酸や肥料などの化学工業がみられる工業地域であることである。つまり、現在みられるような化学工業を中心とした瀬戸内工業地域のルーツは1930年代にあると、新居浜市の事例からいえるのではないかと考える。 したがって、今後の研究としては、愛媛県新居浜市だけではなく、1930年代の瀬戸内海南部(北四国)の工業地域がどのような特色がみられるのかを、市町村合併、港湾などの関係を含み、研究をしていきたい。参考・引用文献「新居浜日日新聞」(昭和10年1月1日1p)「愛媛新報」(昭和12年5月7日、1p)『新居浜港開港30年のあゆみ』(新居浜港開港30年のあゆみ編集委員会、昭和55年)瀬戸内工業地域と新居浜 瀬戸内工業地域は現在、石油化学コンビナートなどがみられる重化学工業地域として知られており、愛媛県新居浜市(以下新居浜)は住友の企業城下町として、1934(昭和9)年に成立した住友化学株式会社を中心とした化学工業、翌年に成立した住友金属株式会社を中心とした重工業がみられる。新居浜市は1937(昭和12)年11月3日をもって、当時新居浜町・金子村・高津村の3町村を合併することによって成立した都市である。「別子銅山の末期」と新居浜港 新居浜地域の重化学工業化は1927(昭和2)年から始まった。当時の住友別子鉱山株式会社の常務である鷲尾勘解治が「別子銅山の末期」を発表した。鉱石の品質の低下、埋蔵鉱量の減少、採掘技術が進歩して23年以内に採掘し終えるといったものであった。また、鷲尾勘解治は五ヶ条の地方後栄策を1929(昭和4)年に発表し、新居浜港を改修する、埋め立てによる工場敷地の獲得、化学工業の拡張、機械工業を興すこと、共存共栄の思想を涵養することを挙げ、別子鉱山株式会社の名で新居浜港修築計画を愛媛県に出願している。 この修築計画は翌年に免許を受け、埋め立てを開始した。この修築の費用は1千万とされており、船が横着け可能な港を完成させた。 新居浜港修築計画と並行して、新居浜港臨海部では大正期に製造していた硫酸と過燐酸石灰肥料に加え、硫安肥料の製造を開始し、新居浜港から肥料、硫酸などを移出し新居浜を発展させていった。新居浜市市制施行 1930年代前半では新居浜港修築が行われているなか、新居浜町・金子村・高津村の3町村の3町村合併の交渉が行われていたが、3町村合併問題として当時の新聞が取り上げている(「新居浜日日新聞」「愛媛新報」)。金子村は先ず新居浜町と町村合併が優先であり、高津村を入れるべきではないとし、一方、高津村は金子村を加える場合、町村合併を行わないという方針を出していた。 しかし、新居浜町と金子村の工場地帯・住宅地帯の境界が不明瞭になったこと、住友の修築計画が完成しつつあることを受けて、愛媛県が斡旋をすることにより、1937(昭和12)年6月25日に各地方議会にて合併の承認を可決し、11月3日に正式調印することで、新居浜市が成立した。これにより、新居浜市の総生産額8000万円(愛媛県下第一位)、人口約3万3000人(愛媛県4位)ということになり、工都新居浜市として成立した。国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程 1年鵜飼 要(UKAI Kaname)1994年北海道札幌市生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科(歴史学・地理学専攻)博士前期課程在学中。専攻は歴史地理学・経済地理学。卒業研究では、愛媛県新居浜市・山口県宇部市に着目した瀬戸内工業地域に関する研究を行った。現在では、卒業研究の中で1930年代において港の修築計画がみられるのと伴い工業地域の形成がみられることを確認することができたため、現代の瀬戸内工業地域の特色である化学工業都市を中心に瀬戸内工業地域の形成を検討する。

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