GLOCAL Vol.13
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81950年代の台湾文学 金溟若「石教授」を読む党中央指導部では、内戦における敗北の原因を軍事的要因だけではなく、文化思想政策全般での敗北でもあるという認識を強めるにいたった。 文芸方面においては、1950年3月に「時代性に富む文芸創作を奨励することで民衆の士気を鼓舞し、反共抗ソの精神を発揮する」ことを目指した中華文芸奨金委員会(文奨会)を創設する。反共抗ソを主題とする作品を公募し、優秀な作品には賞金を与えるとともに出版普及に努めた。そして1951年5月には、雑誌『文芸創作』が創刊される。発行者の張道藩は文奨会の主任委員で、1930年代以降中国国民党の文化政策の中枢にいた人物であり、後に立法院長にもなっている。この雑誌は、文奨会の賞金授与作品や創作補助金対象作品を掲載するだけでなく、国民党政府の文芸政策を推進する任務を負っていた。文奨会の創作補助対象の規定にしたがい、小説だけでなく、詩歌、戯曲、鼓詞(歌物語)、木版宣伝画、文芸理論など広範なジャンルの作品を掲載していたことと、高額な原稿料とそれに伴う寄稿数の多さで1950年代を代表する文芸雑誌の一つであった。『文芸創作』そして金溟若 「石教授」 『文芸創作』は日本国内の図書館では見当たらず、ほぼ全巻が台湾大学総合図書館にあ 台湾大学の客座学人宿舎(ゲストハウス)はキャンパスの外にある。周囲には台湾大学教職員宿舎と思しき同様の中層建築がいくつも見られた。宿舎から文学院へは徒歩で10分程度であり、総合図書館へも15分程度でたどり着ける。 大学へ歩いて行く道すがら、平屋の日本式家屋もぽつりぽつりと見られた。台湾大学文学院哲学系教授で、戒厳令時代の自由主義者であった殷海光や台湾師範大学文学院院長で、シェイクスピア研究の権威でもあった梁実秋の故居のように整備修復されて一般公開されているものもあったり、リノベーションされてカフェやレストランになったりしているところもあったが、住人がいるのかどうかわからないほど苔むしていたり、一部倒壊しているような建物も結構あった。このあたりは日本統治時代は昭和町と呼ばれていたようだ。1950年代、台湾の文学へ 私は政治と文学の関係に興味を持っている。近年では、中華人民共和国における西暦2000年以降の文芸方面での施策の中で、中国作家協会による「重点作品扶助制度」という新しい方式の創作支援制度についての研究を進めてきた。中国作家協会は、もともと中華全国文学工作者協会として1949年7月に創設された「民間団体」であるが、「中国共産党が指導し」「党と政府が広範な作家、文学従事者と連繋するための橋梁かつ紐帯であり」「社会主義精神文明建設を強化する重要な社会的力量である」とその規約に定められている。 中華人民共和国における文学制度を考察する一方、台湾における文芸方面での施策について調べていると、中華民国政府も文学賞や創作補助、若手作家育成などに積極的に支援をしており、双方に時代や程度、方式の違いこそあれ「国家が文学芸術に積極的に関与する」体制に類似点が見られることに気がついた。もちろん1987年の戒厳令解除以降の民主化により、かつてのような強権的な政治体制は消失し、現在では文化振興助成といった意味合いが強くなっているのは言うまでもないが、今日でこそ様々な団体により開催されている文学営(文学キャンプ)は、もとは1955年に中国青年反共救国団によってエリート青年を対象として反共教育のために開始されたものであった。「国家が文学芸術に積極的に関与する」という近代中国に出現した極めて特異な文学制度について考えるには、まずは1950年代の文学状況に立ち返る必要がありそうだ。 1949年12月、中国共産党との内戦に敗北した中華民国国民政府は台湾に遷移し、同地を大陸に反攻するための復興基地、三民主義の模範省として再建しようとした。対岸に成立した共産党政権による「台湾解放」に対する恐怖が日ごとに増大する中、中国国民国際人間学研究科 国際関係学専攻 准教授和田知久(WADA Tomohisa)2001年、大阪外国語大学大学院言語社会研究科言語社会専攻博士後期課程単位取得満期退学。中国近現代文学専攻。1980年代以降の作家や作品、文学制度を研究対象とする。 「『中国文芸年鑑』通覧 : 各巻の体裁、編纂体制、収録記事とその分類からみた1980年代中国における文芸システム」(『貿易風』第13号、2018.4)。2018年4月から約半年間、国立台湾大学文学院中国文学系訪問学者として台北市に滞在。F abroadrom

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