GLOCAL Vol.13
12/16

10弘治・永禄年間における織田信長の居城れていた小牧山城下は新たな都市であったと考えられるようになった。おわりに 信長は、美濃攻略を終えて拠点を小牧から岐阜に移すと小牧山城は廃城となった。信長は、岐阜に拠点を移すと美濃国の西側を集中的に攻めていった。しかし、戦国期の拠点は、地域統一をする上で拠点を移したとしても以前の拠点はそのまま置かれていた。信長が拠点とした城の中で唯一廃城となった城が小牧山城である。近年の研究では、小牧山城の見方が一時的な砦から近世都市へと変わっている。小牧山城が美濃攻略の一時的な砦であったのであれば、美濃攻略という目的を果たしたために廃城となったという理由に納得がいく。しかし、小牧山城が近世都市であったのであれば廃城した理由も変わってくるのではないかと考えたため、今後は小牧山城が廃城となった理由を究明したい。 その上で、さしあたっては、研究史をまとめていきたい。信長の研究は多く存在しているため、年代別に小牧山城など研究がどのようになされてきたのか整理していく。次は、発掘結果をまとめることである。城下町の研究では、別々の発掘地点から異なる意見が見られるため、それぞれの城・城下町の過去の発掘調査を総合的に捉える。その上で、弘治・永禄年間の信長の政治的状況や経済政策などを踏まえながら、小牧山城が廃城となった理由について考察する予定である。参考文献池上裕子『人物叢書 織田信長』吉川弘文館、2012年仁木宏・松尾信裕編『信長の城下町』高志書院、2008年千田嘉博『信長の城』岩波書店、2013年斎藤慎一・向井一雄著『日本城郭史』吉川弘文館、2016年はじめに 戦国大名は、居城を構えると特別な理由がない限り居城を移すことはない。しかし、織田信長は生涯において清須城・小牧山城・岐阜城・安土城と拠点を転々と移していた。織田信長の研究は、「美濃攻略」に焦点を置いて小牧山城について論じられている。研究結果として、小牧山城は美濃攻略の一時的な城であったと考えられている。しかし、近年の発掘調査により小牧山城に石垣や城下町が見つかったことから、千田嘉博氏を中心とした研究者が小牧山城を清須に代わる尾張国の近世都市であったと論じている。本稿では、織田信長が小牧山城・岐阜城に拠点を移す弘治・永禄年間の動向をみた上で、今後の課題について述べていきたい。織田信長の行動 織田信長は弘治元年(1555)に尾張国下四郡の守護代・織田信友を清須城から追放し、清須城を居城とした。当時の信長の周辺では対立関係が多くみられた。弟・信行と対立しており、弘治2年の稲生の戦いで勝利し、翌年には信行を殺害した。更に、浮野の戦い(1558)や岩倉城の戦い(1559)でも勝利し、尾張国の統一を果たした。駿河国(現・静岡県の一部)・三河国(現・愛知県の一部)を領域としていた今川氏とは、信長が清須に拠点を移す前から対立していた。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、今川氏を弱体化させた。桶狭間の戦いの後に、三河国の松平元康(後の徳川家康)と清須同盟を結成した。美濃国(現・岐阜県の一部)とは、天文17年(1548)に斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚をしたことで関係は良好であった。しかし、弘治2年(1556)に斎藤道三が自害すると、家督は子・義龍に受け継がれ、信長と対立するようになった。義龍が早くに亡くなると、家督は義龍の子・龍興が受け継ぎ、信長は隙を突き美濃攻略を開始した。当初は、墨俣に拠点を置き、西美濃側から攻略する戦略であったが、犬山城主・織田信清が斎藤氏と手を組んだために、美濃攻略前に犬山を攻略し、尾張国を統一した上で安定させる必要が生じた。そのため、永禄6年(1563)に拠点を小牧山城に移した。その城から犬山城・稲葉山城を攻略すると、信長は尾張国を統一し、稲葉山城を改修し岐阜城と改め、岐阜城を新たな居城とした。その後、伊勢国(現・三重県の一部)や越前国(現・福井県の一部)の朝倉氏、近江国(現・滋賀県)の浅井氏を攻め、天下統一に向けて躍進していった。城の役割 戦国大名の居城である城は、防御機能を備えており、戦国期においては山城を拠点とする武将が多い。戦国期の城郭の特徴としては、山城や守護が拠点としていた館城が挙げられる。しかし、織豊期になると石垣が見られ、更に寺院や公家屋敷に多用されていた礎石建築が見られるようになった。岐阜城や安土城のように豪華絢爛な見た目も重視された城も登場した。織豊系城郭は、信長が楽市楽座といった経済政策を行ったように経済拠点として立地されたとも考えられている。 城郭の周りを囲むように家臣の屋敷が立地し、その周囲に城下町が展開されていた。また、発掘調査より城下町からは陶磁器などといった生活用品が見つかっている。近年の発掘調査により、広範囲にわたり小牧山城下に城下町が展開されていたことが判明しているので、美濃攻略のための一時的な城であったと考えら国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程 M1林 沙也加(HAYASHI Sayaka)1995年岐阜県生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科歴史学・地理学専攻博士前期課程在学中。専門は日本中世史。現在、弘治・永禄年間における尾張国(現・愛知県の一部)の戦国大名織田信長の居城であった小牧山城や岐阜城に注目して、小牧山城の廃城理由について研究している。s

元のページ  ../index.html#12

このブックを見る