GLOCAL Vol.13
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4オックスフォード大学東洋学部の四半世紀 エジプト学徒としての経験からキリスト教研究、エジプト学・古代近東研究、ヨーロッパ・中東言語研究、南・内陸アジア研究、東アジア研究などとその対象とする範囲の広さに改めて驚かされる。ただしそこにはその時々の地域的な関心が反映されている面も少なくなく、例えば日本語の講座は1909年に設置されたが、受講する学生がいなかったため講師の引退とともに一旦消滅したことが記されており、興味深い。もともとキリスト教の神学校として出発した同大学では、文法や修辞学、論理学の三科、そして算術や幾何学、天文学、音楽の上級四科が神学、教会法、医学の専門教育に対する教養教育の柱となっていたが、17世紀の末に近代科学系の科目が加わり、英文学や歴史学、社会科学といった科目が導入されたのは19世紀になってからのことであった。その後、20世紀に入ると学内における教育改革は「東洋」研究などの学部(Faculty)編成へとつながり、1960年に東洋研究所(Oriental Institute)が設立され、今日に至っている。これは、例えばエジプト学や古代近東研究の研究所として知られるGriffith Instituteが設立された1939年より21年、エジプト学教授のポストが設置された1901年から59年も後のできごとであった。四半世紀という流れの中で筆者が最初にオックスフォード大学に留学東洋学とは何か「東洋学」と聞いて、その範囲を明確に答えることは必ずしも容易ではない。ここでの「東洋」とは「ヨーロッパから見た東」の意味で、イギリスで「東洋学(Oriental Studies)」と言えば、筆者が専門とするエジプトをはじめ、シリア、イラン、イラクといった西アジアの国々や、中央アジア、インド、中国、朝鮮半島、そして日本までもが含まれるのが通常である。もっとも中国では、「東洋(東の海)」は日本を意味するため、これはヨーロッパの大学(とりわけ中世に起源を持つ古い大学に多い)に特有な学問区分のように思われる。その発端は14世紀初めに見出すことができ、1311年にフランスのヴィエンヌで開かれた公会議では、「パリ、オックスフォード、ボローニャ、アヴィニョン、サラマンカの大学にアラビア語やギリシア語、ヘブライ語、アラム語の講座を設置する」ことが決議された。ローマ帝国の分裂後、中世から近世、近代へと時が流れる中でヨーロッパはオスマン帝国と対峙し、やがて東方に進出したが、そうした時勢の中で言語を始めとするさまざまな知識は蓄えられ、研究されるようになった。エジプトでは、ナポレオンが1798年に軍事遠征を行った際に測量技師や画家、研究者などを同行させ、その成果を大著『エジプト誌(Description de l’Égypte)』として刊行し、またその際に発見されたロゼッタ・ストーン等を用いることでシャンポリオンは1822年に象形文字の解読に成功した。その後も古代ペルシア語やアッシリア語、ヘブライ語といった言語の研究が進み、東南アジアにおいてもボロブドゥールやアンコール遺跡の調査が行われるなど、「東洋学」はヨーロッパの植民地支配と密接に絡み合いながらその範囲を徐々に拡げていったのである。1873年にはパリで第1回の国際東洋学会議が開催され、1898年にはインドシナにフランス極東学院が設立された。1759年と1793年にそれぞれ設立された大英博物館とルーヴル美術館においてもオリエント(東洋)展示は当初から目玉の一つであり、1851年にロンドンで開催された第1回の万国博覧会では、イギリスが世界随一の産業大国としてさまざまな機械を展示するとともに、エジプトやアッシリアの古代遺跡が復元され、奇妙なコントラストをなして人びとの関心を誘った。オックスフォード大学東洋学部語学研究を出発点として展開したオックスフォード大学において、「東洋」研究はその後さまざまな地域や国の講座を開設し、拡張していった。同大学のホームページや関連する資料を改めて調べてみると、現在開講されている専攻としては、学部と大学院で区分がやや異なるものの、近東・中東研究、イスラム社会研究、ヘブライ語・ユダヤ研究、東方国際人間学研究科 国際関係学専攻 教授中野智章(NAKANO Tomoaki)南山大学大学院文学研究科文化人類学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門分野はエジプト学、考古学。古代エジプト文明の盛衰やヨーロッパに与えた影響について研究している。南山大学文学部人類学科卒業後、オックスフォード大学東洋学部でエジプト学を学ぶ。日本学術振興会特別研究員、古代オリエント博物館学芸員を経て中部大へ。エジプト展の監修やピラミッドや神殿の遺跡調査を行っている。

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