GLOCAL Vol.13
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6人は何故/いつ/どのように/相談に向かうのか?−「来談動機」への着目−お互いにしんどい作業ではあるが、生き方を考えるお手伝いをさせていただくことはやりがいのある仕事である。面接の終結に近づくと、たいがいはクライエントとカウンセラー双方が、そろそろだなと感じるようなる。 ところが時として、この「もうそろそろかな」という感覚が一致しないことがある。これはカウンセラー側の読みが甘いことに他ならないのであるが、よくなってきたと思った矢先に、何故かまた一大事が起こり、調子を崩す人がある。しかも、それが繰り返されるとなると、もしかしたら、この人は良くなりたくないのではないか?と思えてくる。つまり、心の問題が解決するとカウンセラーに会えなくなり、その後は自分自身で引き受けなければいけないということに対して躊躇や抵抗があるのだと考えられた。 さらにもう一つ、毎回来るたびに私に対する文句やカウンセリングというものに対する不満を述べまくるクライエントがいた。多くはないが、一人ならずいた。不思議なのは、にもかかわらずきちんと毎週決まった時間に通ってくることだった。 私は心理相談というのは、多くの人間関係と異なり、いずれ別れることを目指した出会いだと考えている。自分に向き合い、自分の課題を自ら引き受けていく、いわば「自立に向かうための来談」となることが支援者の役割でもある。しかし、なかなかそこまでいかず、むしろ(無意識にではあるが)引き延ば 「心理臨床実践」の仕事は、クライエント及びその関係者との心理相談(カウンセリング)、検査・面接・観察による心理アセスメント、予防啓発やそのための研究活動からなり、医療保健(病院や保健センターなど)、教育(学校や教育相談センターなど)、福祉(児相や施設など)、司法矯正(家裁や鑑別所、警察など)、産業労働(企業など)といった多様な領域で展開されている。私自身もいくつかの現場で実践に携わってきた。特に長く深くコミットしてきたのは精神科病院、学生相談室、大学附属心理相談室である。さまざまな現場で多様なクライエントの心の支援に携わる中で、いくつかの素朴な疑問が浮かんできた。人は何故、心の相談に訪れるのだろうか? それは、悩みや困りごとが生じたから、という答えは間違ってはいない。間違ってはいないのだが、どうもそれだけではない、そうとは限らない、と感じる体験が時々あった。不登校を例に考えてみよう。「学校に行きたいのに行けない」というのは顕在化した問題である。その背景として、「先生に叱られた」「同級生に馴染めない」「苦手な授業がある」などの理由は比較的わかりやすいが、「「自分に自信がない」「人と話をしたくない」「やりたいことが見つからない」といった、自分自身との関係をめぐる葛藤や苦悩が内在していることも多い。また、時には親子や両親間のトラブルなど家族内の問題を抱えている場合もある。不登校の要因が学校との関係ではないのであれば、どんなに学校に行くための工夫をしてもうまくはいかない。 「相談内容」(主訴)は「通行手形」に過ぎない、という言葉がある。本人も十分意識できていない深い心の問題にぶちあたってしまった時、それが深刻なものであるほど自覚することがつらく困難であるため、別の形で現れることは少なくない。それが、わかりやすいSOSとなり、本人も周囲も「何か不調が生じている」と気づいて、相談機関を訪れることとなる。 したがって、心の支援にあたっては、顕在化した問題と内在化している問題の両方に視点を向ける必要がある。心の相談は、いつ終わるのだろうか? 相談面接が開始され、しばらくすると当初の悩みや困りごとは一段落する。さらに続けると、少し深いところにある問題にも取り組めるようになっていく。世の中に完璧な人は存在しないので、心の問題が100%解決するというのは難しいことであるが、大事になる前に自分なりの対処のコツがつかめるようになること、そのための自己理解が進むことが、心理相談のゴールとなる。時間のかかる、国際人間学研究科 心理学専攻 教授森田美弥子(MORITA Miyako)名古屋大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士後期課程単位取得満期退学。教育学修士。専門は臨床心理学。精神科病院での実践をもとに、ロールシャッハ法を中心とする「心理アセスメント」、学生相談での実践をもとに、青年期における「カウンセリングへの来談動機」、臨床心理士養成大学院での実践をもとに、「心の専門家養成教育」をテーマとして、実践研究に取り組んできた。

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