GLOCAL vol.15
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2019 Vol.152019 Vol.157延安整風運動における「階級の敵」と政治秩序導」の実現には、「大衆との結合」が重要な課題であった。「階級の敵」 反スパイ闘争が本格化する以前、毛沢東は「文芸講話」(1942年5月)のなかで、現在の思想闘争は、「プロレタリアートの指導する革命的な新民主主義社会を建設するには、新しい大衆と結合しなければならない」ものであるといった。毛のいう「大衆との結合」は1943年4月3日の党中央の決定で具体化されたと言え、それが反スパイ闘争として実践された。共産主義社会における社会階級に対する闘争形態では、「階級の敵」と称する指標がたてられる。そのようなわけで、延安整風運動では「階級の敵」を基軸とする指導体制の変革が行われ、それを下に政治秩序が形成されると想定できるのである。引用文献「中共中央関於継続展開整風運動的決定」(1943年4月3日)中央案館『中共中央文件選集』第14冊、1991年。郭華倫著、矢島鈞次監訳『中国共産党史論』第4巻、春秋社、1991年。毛沢東「在延安文芸座談会上的講話」(1942年5月3日、23日)毛沢東文献資料研究会編『毛沢東集』第8巻、蒼蒼社、1989年。現代中国政治体制の強靭性 現代中国政治研究の重要な問題のひとつは、中国共産党が今も国家の支配を維持し続けている要因の解明である。このような中国政治体制の強靭性をめぐる議論は、政治学ではより最近の「現代中国」を対象とし、歴史学においては建国以前の「近代中国」を対象としてきた。 本研究は建国以前の「近代中国」を対象として中国政治体制の持続力の源を探究するものである。この時期を対象とする理由には、毛沢東時代の政治体制が戦時下の延安で形成された指導体制を継承していたからである。また毛沢東時代以後の政治体制も、国内外の情勢により性格上の違いはあるものの、「すべては共産党の指導のもと」という原則の姿勢は維持されている。(毛里和子、2004年)。 筆者の関心は、建国以前の「近代中国」のなかでも、抗日戦争期に中国共産党が発動した延安整風運動にある。なぜなら、延安整風運動こそ抗日戦争期における中国共産党の指導体制が形成される時局だったからである。従来考えられていた延安整風運動の性格は、毛沢東ひとりの存在の突出がみられるために、毛の権威の確立を促したものとされる(丸田孝志、1993年)。しかしながら、この時期の党は国家再建を想定した党の建設を政策の中心としている。そのため、延安整風運動において中国共産党の指導体制が形成されたと言え、建国以後も連続する政治体制の原動力を明らかにする鍵もそこにあるといえよう。指導的機能の変革 抗日戦争期における中国共産党は、日本軍と相対するなかでも、その基本的方針は党の建設であった。1942年2月にはじまる延安整風運動では、党の建設を円滑に推進するための指導的機能の変革がなされた。S・R・シュラム(1989年)は、延安で導入された基軸となる概念が、党による統一と指導の役割の核心を示す意味をもつ「一元化」にあると論じる。これは1943年3月20日の中央政治局決定と同年6月の毛沢東「中共中央の指導方法の決定」において確認できる。すなわち、延安整風運動の過程で指導体制は「一元化指導」として確立されたのである。こうした指導体制は、中央総学習委員会と中央社会部の両機関を主体として実現に向かった。反スパイ闘争の経験 「一元化指導」の実現は反スパイ闘争の経過から観察することができる。1943年4月3日の「引き続き整風運動を展開することに関する決定」において、「幹部の中の非プロレタリア階級思想を正すこと」、「党内に潜伏している反革命分子を一掃すること」と記されことから、整風運動は党の特務政策と連結して行われたことがわかる。また党中央が秘密裏に発した「防奸経験介紹」によると、1943年7月9日~8月15日における搶救運動は、大衆的な反スパイ闘争路線を築いたとされる。これらのことから「一元化指国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程1年片岡 涼(KATAOKA Ryo)1997年岐阜県生まれ。中部大学人文学部歴史地理学科卒業。現在、中部大学大学院国際人間学研究科(歴史学・地理学専攻)博士前期課程1年。専攻は中国共産党史。修士研究では、日中戦争期の中国共産党を対象に、歴史学と政治学の両分野からのアプローチを試みている。s

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