GLOCAL_Vol16
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6戦国時代における騎馬戦闘について―騎乗戦闘の再検討―軍学書に見る「犬槍」の記述 「犬槍」という記述は、甲州流とその流れを汲む北条流・山鹿流の軍学書に見出す事ができる。それらの軍学書において、「犬槍」は「馬上の槍」と並んで「塀越、垣越、溝越の槍」が挙げられていたり、「犬槍」という語が「捨て首」「女首」と並列に記述されたりしている。その事から、「犬槍」という語は「無意味・非合理的」というよりも「卑怯・不名誉」という意味合いが適切である様に思える。 また甲州流では騎乗戦闘の例に関する記述が見られ、また山鹿流の兵法書では騎馬を用いた戦法についての記述も存在した。一方で十八世紀に薩摩で成立した合伝流では「馬上の駆引思ひもよらざる事なれば、馬上の太刀・鎗、当流にては戦場に用なしとす」としており、この時代に軍学者の間で「騎乗しての戦闘は無意味」という考え方が発生したと言えるだろう。参考・引用文献鈴木眞哉『鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦』2003 洋泉社中村勝利編著『藤堂藩・諸士軍功録』1985 三重県郷土資料刊行会塙保己一編『新校群書類従 第十六巻』1977 名著普及会大久保彦左衛門『三河物語』1992 徳間書店石岡久夫『日本兵法全集1.3.4』1967、『日本兵法全集7』1968 新人物往来社はじめに 近年、鈴木眞哉氏を初めとした研究者によって、戦国時代の合戦様態に関して騎乗戦闘の有無が議論になったが、その多くが地域性を無視していると感じられる。本論では一次史料や同時代の人物の書き残した覚書を中心に、特に戦闘の際の騎乗の武士がどのような戦法を選択したか、特にそこに地域性の影響が現れているかに着目して分析を行いたい。 また鈴木眞哉氏は江戸時代の軍学者が馬上の槍を「犬槍」とした事に触れ、これを「無意味なもの」と解釈しているが、これが妥当であるかについても考察を行った。史料に見る騎馬戦闘の実態 現在一次史料としては「藤堂藩諸士軍功録」の分析を行っている。これは藤堂藩が大坂夏の陣の後に、配下の武士に命じて上申させたもので、自分が合戦の際にどのような行動をしたかを報告させたものである。この史料では、追撃戦を行う際に騎乗のまま敵に攻撃を仕掛けた例や複数の騎乗の武士が連れ立って突撃を仕掛けた例や、下馬した敵武者と交戦した例、下馬が早く戦いに参加できなかった例などが見受けられた。 また戦国時代の人物の手による記録に関しては、「豊鑑」「三河物語」「伊達日記」において記述を確認できた。「豊鑑」においては一度撤退してから再度戦場に戻り、そこで騎乗のまま討たれたという記述があり、下馬する事は不可能では無かった様に思える。「三河物語」においては、追撃や移動中の敵を急襲した際に騎乗戦闘が発生しているとの記述がある一方で、筆者の大久保忠教は「合戦之時ハ、皆々馬より追下して、馬をバ後備より遥かに遠くやる物」ともしており、彼は下馬して戦闘に入るのが基本という認識を持っていた様に窺える。逆に「伊達日記」においては騎乗で戦場を「乗分」たり、乱戦の中馬上の敵を突き落としたりと、前述の史料と違い追撃戦でない騎乗戦闘が記録されている。 これらの史料はそれぞれ竹中重門、大久保忠教、伊達成実といった実際の合戦に従軍した武士が書き遺したとされており、その合戦像において大きな間違いはないと推察される。 また地域性の観点で見ると、藤堂高虎は近江出身で領国は伊賀・伊勢の大名、竹中重門は美濃、大久保忠教は三河の出身であり、伊達成実は陸奥の武将である。挙げた史料の内、東北の記録である「伊達日記」にのみ追撃戦などの移動が関係しない戦闘で騎乗戦闘が記されているのは興味深い。また騎乗・下馬に関して、具体的に命令が行われた記述はなく、何らかの命令や規則があったとは思い難い。 現状ではまだ史料が少な過ぎるので、より多数の良質の史料を、特に西日本を中心に収集し分析を行いたい。国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程1年杉山浩規(SUGIYAMA Hiroki)1994年、愛知県名古屋市出身。中部大学人文学部歴史地理学科を卒業後、2年間企業に勤務の後、2019年度より大学院入学。専攻は日本中世史。卒業研究では「東海地方における騎馬戦の実態」という題目で戦国時代の騎馬兵の合戦様式を調査したが、東海地方に限定するに留まった。修士論文ではその範囲を全国に広げ、地域性に重点を置き分析を試みる。s

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