GLOCAL Vol.21
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8い視野を持つようになった経緯について、あるいは当時のアメリカの人種差別に関してなど、数多くの質問があり、活発な議論が繰り広げられた。     (柳澤幾美 中部大学非常勤講師)参考文献中濱博『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』冨山房インターナショナル、2005年。中濱京『ジョン万次郎 日米友好の原点』冨山房インターナショナル、2014年。 2022年6月29日(水)、人文学部歴史地理学科・大学院国際人間学研究科歴史学・地理学専攻主催による講演会、「子孫が語る日米の架け橋~ジョン万次郎の生涯~」が開催された。外部からの講師として、ジョン万次郎こと中濱万次郎の5代目子孫、中濱京氏をお招きした。万次郎について 万次郎は、1872年、土佐国中の浜(現在の高知県土佐清水市)の小さな漁村で漁師の次男として生まれた。万次郎が14歳になった1841年、初めての漁で仲間4人とともに遭難し、無人島の鳥島に漂着した。数ヶ月のサバイバル生活の後、ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に奇跡的に救助された。 万次郎はそのまま船長に連れられてアメリカのマサチューセッツ州に渡り、船長の温かい隣人愛により家族同様に育てられた。小学校で英語の読み書きを覚え、その後も航海術をはじめとする多くの知識や技術を身につけた。成長するとアメリカの捕鯨船の船員として世界を廻った。さまざまな苦労を乗り越え、1851年、24歳にして祖国日本への帰還を果たした。 帰国後、2年近くに渡り取り調べを受けたが、やがて幕末の激動の歴史の中、幕府の直参となり、西欧事情を伝えた。開国後、万次郎は日米修好通商条約の批准に向かう使節の補助船「咸臨丸」に通訳として乗船し、渡米した。航海中は彼の高い航海技術も評価を受けた。咸臨丸では、勝海舟や福沢諭吉らと交流し、アメリカに渡ってからは、恩人のホイットフィールド船長とも再会した。日本が開国を迎えた時期に、万次郎は、旧開成学校(現在の東京大学)の教授をはじめ、幕府や明治政府において重要な役割を果たし、1898年、71歳でその激動の人生を終えた。講演会で 講演会では、万次郎たちの漂流や無人島でのサバイバル生活の様子、「ジョン万次郎」の名前の由来、万次郎が通った現地の小学校などが紹介された。また、万次郎が携わったアメリカの捕鯨についての説明や、万次郎は日本人唯一の「49ners」(ゴールドラッシュの時に金を求めてカリフォルニアに行った人々のこと)であること、万次郎の著書、そして、救助してくれたホイットフィールド船長の子孫と中濱家との5代に渡る交流についても語られた。とりわけ興味深かったのは、日米開戦直前、両家やペリー提督の子孫たちが、開戦を避けようと模索していたという事実であった。 会場からは、土佐の田舎出身の万次郎が広講演会「子孫が語る日米の架け橋~ジョン万次郎の生涯~」を開催487-850112000568-51-11110568-52-0622inkn@office.chubu.ac.jp::5

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