GLOCAL Vol.21
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2022 Vol.217近年はその成果が注目され始めている。美濃派のネットワークに関する調査を通して、江戸時代の文化と産業の関係性や村社会における文化の役割を解明できるのではないかと考える。また、美濃派を地芝居などの地域文化と体系付けて捉えようとする点に、本研究の意義がある。引用文献(1)今栄蔵 編『貞門談林俳人大観』(中央大学出版部、1998年)(2)岡本勝 著『「奥の細道」物語』(東京堂出版、1998年)(3)森川昭 著『谷木因全集』(和泉書院、1985年)(4)堀切実「美濃派俳論史と心学」(『江戸文学』26号、ぺりかん社、2002年 p.139‒156)(5)山岡町史編集委員会 編『山岡町史』通史編(山岡町、1984年)研究目的とその背景 本研究の背景として、江戸時代の俳諧が果たした社会的意義がある。当時の俳諧は富裕層の商人達にとって、商売を円滑に進める接待遊戯の役割を担っていた。近世中期に入ると、松尾芭蕉の弟子の各務支考(1665~1731)が俳諧流派「美濃派」を確立し、農民層を中心として全国各地に伝播した。したがって、本研究の目的は美濃派普及の副産物となる社会的意義を解明することにある。調査対象とその内容 全国的な広がりを見せた美濃派だが、その本拠地は恒常的に美濃地方にあった。そこで、本研究は対象地域を美濃地方に絞り、美濃俳壇(地方の俳諧コミュニティ)の実態解明に繋がる調査を行う。調査の具体的な内容として、⑴ 美濃派確立以前の俳諧活動の把握、⑵ 美濃派俳書の閲覧、⑶ 地域文化と美濃派の結びつきの3点に集約できる。今後の調査について ⑴を通して、近世初期から芭蕉が没した元禄7年(1694)頃の美濃俳壇の歴史と諸相について整理する必要性がある。『貞門談林俳人大観』(1)によれば、美濃で俳諧文化が萌芽した時期は明暦(1655~1657)頃と推察でき、竹ヶ鼻(現・羽島市)や大垣城下などが俳諧の隆盛地だった。この背景として木曽三川を活用した川湊の存在などが考えられ、物流と地方文化の関係性が示唆できる。なお、⑴では従来の俳壇研究の見直しも図る。たとえば、松尾芭蕉の来訪によって大垣は蕉門一色になったと捉えがちだが、実際は谷木因のような蕉門に属さない人物も存在した。岡本勝氏(2)の指摘や森川昭氏(3)の先行研究を参考として芭蕉と木因の関係性を再考し、元禄初期における大垣俳壇の多様性を認める必要があろう。 ⑵では、近世後期(天保期頃)までに出版された美濃派俳書の集積と確認を進めている。資料内には地域の有力商人や庄屋が散見するので、市町村史との照合も念頭に入れている。また、俳書によっては『恒つねのまこと之誠』(安永3年刊)のように、出版行為そのものが家の社会的ステータスを上げる意義を担ったものが存在するので留意したい。 ⑶では、地域特有の文化的活動・特徴と美濃派の関連性を検討する。たとえば、美濃派と石門心学(倫理学の一種)は普及方法が類似しており、美濃派俳人の思想にも石門心学が影響していることを堀切実氏(4)は指摘する。一見、関連性が無い文化的活動が美濃派と結びついている事例は上述以外にも想定でき、その一つに東濃の地芝居がある。美濃の俳諧史と地芝居の歴史を照合すると、美濃派で活躍した人々が地芝居を支えていたことが『山岡町史』(5)などから伺える。期待される成果と研究の意義 「田舎蕉門」と揶揄されてきた美濃派だが、組織的な伝播が果たした社会的意義は多く、「美濃派」の社会的意義について国際人間学研究科 言語文化専攻 博士後期課程1年樗木 宏成(OTEKI Hironari)1994年、岐阜県大垣市生まれ。2017年に本学の日本語日本文化学科を卒業後、三重大学大学院に進学。修士課程在籍中に、伊賀市の芭蕉翁記念館で嘱託学芸員として勤務した。2022年より本学の博士後期課程に入学し、現在に至る。専門は俳諧。

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