GLOCAL Vol22
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2023 Vol.225方は、あくまでも「役に立つか立たないか」ということを価値基準として受け入れることが前提になっている。つまり相手と同じ「有用性」という土俵に立って押し返しているだけで、これでは本当の意味での逆襲にはならない。そうではなく、土俵そのものの正当性を問い直し、「有用性」というイデオロギーを「脱構築する」ことが必要なのではないか。「文学研究」の場所 文学研究はそもそもなんらかの「有用性」に奉仕することを目指しているわけではないので、「文系だって役に立つ」という立場は主張できない。私の主たる研究対象はロートレアモンというマニアックなマイナー・ポエットだが、この詩人を研究することにいったい何の意味があるのか、5年後、10年後とはいわないが、50年後、100年後に何か役に立つ見込みはあるのか、と正面から問われると、いや、たぶん何の役にも立たないでしょう、と言って頭を下げるしかないであろう。 つまり私の研究は科学技術のように人類の進歩に貢献するわけではないし、政治学や経済学のように現代世界の課題解決に直結するわけでもない。そればかりか、同じ「人文学」に属する哲学や倫理学のように、人間の生き方に何らかの指針を与えるものでもない。したがって、目的遂行型の有用性はもとより、価値創造型の有用性も主張することは困難である。 となると、どちらでもない第3の型、つまり「有用性」の有無という物指しそれ自体からはみ出すような学問の根拠を見出さなければならないことになろう。いかなる有用性にも従属しない「学問のための学問」、あえて名付ければ「自立存在型」の学問である。 ここで私が強調したいのは、「人間は本質的に愚かな存在である」という命題である。ニーチェが『悲劇の誕生』で提示した有名な図式に従えば、調和と秩序を旨とするアポロン的な側面に対して、混沌や逸脱を体現するディオニソス的な側面を同時に内包しているはさまざまな差異や雑多な葛藤が渦巻いているのであり、世界は「小さな物語」にあふれている。だから全体よりも部分、同一性よりも差異に注目することが必要なのであり、それこそが「有用性」に奉仕するのではない「自立存在的」な学問、すなわち文学研究を始めとする人文学の役割であるように思われる。「科学知」の基盤としての人文知 こう考えてみると、「人文知」をこれまで「人文科学」と呼ばれてきた限定的な学問カテゴリーに閉じ込めて「科学知」と対立させるのではなく、人間のあらゆる知的な営みを貫く普遍的な基軸としてとらえたほうがいいのではないかという考えに達する(下図参照)。 human science social science natural science sciences humanities  すべてのsciencesは「人文知」humanitiesの支えがあってはじめて成立するのであり、humanitiesもsciencesの支えがなければ意味をもたない。つまり両者は相互に支え合っており、表裏一体の「総合知」として一つに溶け合っている。「国際人間学」という研究科の英語名称はGlobal humanicsであるが、これはまさに以上のように「総合的・包括的」にhumanityの多様性=humanitiesを研究する学問としての「総合人間学」を表すものとしてとらえるべきであろう。参考・引用文献石井洋二郎(編)『リベラルアーツと自然科学』(水声社、2023年)吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』(1979年、小林康夫訳、水声社、1989年)のが人間である。人間は常に自分をはみ出してしまう過剰なものを抱えており、抑えようにも抑えきれない欲望の噴出にさらされながら、ノモスとカオス、ロゴスとピュシスの間を行ったり来たりしている不条理な存在であって、その判断や行動はおよそ合目的的な最適化の原則には従わない。しかしこのどうしようもない非合理性、癒しがたい愚かさにこそ、人間の人間たるゆえんがあるという言い方もできる。 世界を動かす原理を「盲目的な意志」としてとらえたショーペンハウアーも、人間の奥深くに潜む「無意識」に光をあてたフロイトも、つまるところ規範から逸脱する存在としての人間に注目したという点で一つの系譜に連なっている。予定調和的ではない逸脱の連続、いわば「ずれの連続」としての人間存在に焦点を当て、可能な限りすくいあげるのが、人文学の存在意義なのではないか。「大きな物語」と「小さな物語」 フランスの思想家、フランソワ・リオタールは『ポスト・モダンの条件』(1979)において、近代社会がその文化的コンテキストを正当化し維持するための普遍的な世界観・人間観(科学による進歩、資本主義、民主主義、等々)を「大きな物語」と呼び、その終焉を告知した。文学研究は「人類の進歩」とか「世界の平和」といった理念に対しては、短期的にはもとより、中・長期的に見ても何の役にも立たないかもしれないが、もしリオタールの言うように「大きな物語」が後退して「小さな物語」が散乱しているのが現状であるならば、そこに文学研究の場所を見出せるかもしれない。 現在は過去とは違った形での「大きな物語」が復活する兆しも見える。その一例がSDGsで、今では誰もがこれを自明の正義として唱導している。だが、これを無条件に絶対的な普遍的真理として受け入れてしまうと、人類は特定の「大きな物語」に呑み込まれてしまう危険があるのではないか。われわれはもっとミクロな次元で日々を生きていて、そこに

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