GLOCAL_Vol.23
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10名古屋市立大学名誉教授、アジア・オカリナ協会名誉会長、中部オカリーナ協会名誉理事長加藤 いつみ(KATO Itsumi)(職歴)1965年名古屋市立保育短期大学に幼児音楽の担当教員として勤務。1996年名古屋市立大学との合併により2007年まで勤務。2007―10年名古屋経営短期大学に勤務。2010―12年中部大学現代教育学部に勤務。(学歴)1965年国立音楽大学卒。2005年名古屋大学大学院入学。「生涯学習におけりオカリーナ学習意味」で修士号。2016年中部大学国際人間学研究科入学。「一節切尺八の研究」で修士号。2023年博士号(言語文化学)。文献である。『教訓抄』には、「短笛ハ尺八ト伝」と書かれており、13世紀にはこの笛が存在し、尺八と呼ばれていたことを記述している。② 譜書の中にみられる。譜書とは、一節切を吹くための教本である。私は、14冊の譜書の写しを持っている。最初に成立した「短笛秘傳譜」(1608)は、当時の一流の一節切奏者である大森宗勲(1570―1625)によって書かれたものである。それ以降の譜書ほぼ同じで内容で運指、奏法、若干の演奏法と理論が述べられている。一節切では、中世以来続いている雅楽の理論が基になっている独奏曲、琴・三味線とともに奏でる合奏曲、そして小歌など多岐にわたって奏された。桜の木の下で一節切を吹いて酒宴を楽しむ人々を描いた絵などから、往時を偲ぶことができる。③ 日記の中にいくつかの記述が残されている。山科教言(1328―1411)が書いた『教言卿記』の1408年3月25日、27日の日記の中に早歌の音取や白拍子の舞歌とともに一節切が吹奏された記録が見られる。伏見宮貞成親王(後崇光院)が書いた『看聞御記』の中で永基朝臣が1416年1月24日、1425年4月19日の酒宴にあたり笛を吹いた。その笛は、父大通院(1351―1416)の秘蔵の笛であった、と記録されている。また、石山本願寺の真宗大谷派第10代門首・證如上人(1516―1554)が書いた『天文日記』(1536)の6月16日の条に、笛の代金として「百疋遣」という記録が見られる。「百疋」は現在の金高はじめに 一節切尺八は、真竹を素材とする縦笛である。この笛は、前面に4孔、後面に1孔の指孔を持ち、一つの節を持っている。現在吹かれている虚無僧尺八(現在の尺八)の前身楽器といわれるほどにその構造、奏法、指使いなど共通点が多い。しかし、一節切(以下一節切と略記)は、虚無僧尺八が盛んになるにつれて徐々に衰退し、18世紀初期には吹かれなくなった。私は、その起源、繁栄、衰退を追い、そして一節切を普及させる一例として学校や生涯学習の中に取り入れることを具体的に示した。一節切との出会い 私が一節切と出会ったのは、2008年にオーストラリアのシドニーで開催された「世界尺八フェスティバル」であった。誰が奏しているかわからないがどこからか優しい笛の音が聞こえてきた。それが一節切であった。帰国して、一節切の第一人者である相良保之氏より指導を受け始めた。練習をするうち単に指使いや奏法のみを学ぶことに物足らなさを覚え、自分で学習を始めた。そこで、中部大学の岡本聡教授をお尋ねし、2016年入学試験を経て院生として受け入れていただいた。私の73歳の時であった。一節切とはどんな楽器か 一節切は、長さの異なる5種類の笛がある。中でも最もよく吹かれたのが黄鐘管と呼ばれる33.5糎ほどの笛である。現在でも何本かの古管が残っている。そのうち1本を次に示す。下記の笛は、一休宗純(1394―1481)が愛用したと伝わる一節切である。赤味がかったきれいな笛であり、現在は京都府京田辺市にある酬恩庵に保存されている。 このことから、15世紀には一節切は存在し、吹かれていたことが窺える。17世紀の中頃が最もよく吹かれ、小歌、踊りや歌の伴奏、花見などの余興の座で楽しまれたことが残された資料に見られる。身分のある人は、笙・琵琶・竜笛など雅楽の中で用いられる楽器を奏したが一節切は世俗楽器として僧侶、連歌師、武士など一般庶民人に好まれた。 一節切に関する記述は、雅楽書、譜書、日記、随筆、浮世草子、俳諧などの文献に残されている。これらの資料を辿ることにより、吹かれた曲、吹いた人やその職種など、当時の人々の生活・文化を知ることができる。これらの古典籍から一節切の軌跡を追求する。残された文献から一節切を探る 一節切の資料を大きく5つに分類する。① その最も古いものは狛近真著による『教訓抄』(1233)である。次いで豊原統秋著による『體源鈔』(1511)であるが、これら2冊の譜書は、雅楽のために書かれた一ひと節よ切ぎり尺八の復活を願って

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