GLOCAL_Vol.23
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2023 Vol.232023 Vol.232023 Vol.2311目は古文書がむつかしくて読めなかったこと、二つ目は自身の論文が学会誌になかなか採用されなかったことなど。後者については、もっと早い時期から進めておけば、最後に焦ることなく博論に集中できたのではないかと反省している。三つ目は、自身の身体上での問題である。昨年10月に転んで圧迫骨折した。「80歳を過ぎてそんな無理しなくとも、同世代の人は余生を楽しみ、悠々自適な生活を楽しんでおられるのに」と甘えの気持ちがわいてくる。そんな時には、友人たちに「博士号取るからね」と宣言し、自身をやらねばならぬ方向に奮い立たせた。もう半期の在籍を覚悟していた矢先、この3月に博士号の取得の知らせを受けた。嬉しかった。飛び上がらんばかりの喜びであった。何事をしても躓き、正確にできない私でもやり続ければできることがわかった。継続はまさに力なり。しかし自分一人で書けたわけではない。丁寧に指導してくださった岡本聡教授と国際人間学研究科の院生である樗木宏成氏の助け、その他大勢の方々の教え、励ましがあってこそ出来と感謝している。 学位取得から、5ケ月過ぎようとしているが、書いていた時は十分に理解できなかったことが今になって整理できたことも多々ある。これらを含めて、今後は、江戸期の小歌を五線譜に書き起こし、楽譜化させ、公に発表していきたい。江戸期にも歌があり、人々はこの歌を一節切や三味線の伴奏で歌い、踊った楽しみもあったのである。しかし、現在は「おかざき」以外は伝承されていない。これら貴重な資料をそのまま眠らせておけば、永久に日の目を見ることはないであろう。楽譜にして発表すれば関心を持ち、吹く人や歌う人も現れるかもしれない。また、江戸期の人々の生活や文化を知る一つの手がかりとなるであろう。今後も研究を続行させていきたいと考えている。  12月13日(水)3時20分より大学内のメモリアルホールにて「一節切・琴・三味線・歌で奏でる江戸期の音楽」と題してコンサートを予定しています。是非お越しください。また、次ページは、中日新聞の5月18日の記事で、81歳で博士号をとったことを紹介されたものです。お読みいただければ幸せです。にすると15万円に相当するのではなかろうか。どんな材質が使われているのであろうか、随分高価な笛である。『宗長日記』は、連歌師・柴屋軒宗長(1448―1531)による日記である。その日記によれば、江州は一節切の盛んな地域で、三井寺の僧侶の中には多くの愛好者が居たという。『隔蓂記』は、相国寺の住持・鳳林承章(1593―1668)が33年間の日々の出来事を綴った日記である。その中で注目されるのは、後水尾院(1596―1680)に関する記録である。後水尾院は1657年、壽恩と彼の一族の一節切の演奏を瓢界御殿にて聴いた。その年に壽恩から1管贈られる。1660年9月25日には壽恩作の一節切に樺を巻くように依頼する。10月8日、樺巻の一節切が完成。院はその笛が待ちきれず、相国寺まで使いを送っている。この記事から身分のある人も一節切を好んだことが窺える。④ 随筆にも多くの記録が残されている。『ひとりね』の著者柳沢淇園(1703―1758)は、その中に一節切の奏者とよく吹かれた曲について書いている。奏者としては、大森宗勲の名があり、吹かれた曲は手巾・小児、波間などがあった。宗勲は「中興の祖」と呼ばれる程に後世まで名の残る奏者であったのである。また、吹かれた曲名が具体的に明記されており、当時の流行曲を知る上での貴重な資料となりうる。また、香道家である大枝流房(生没年未詳) による『雅遊漫録』巻五―洞簫辯―(1755)の中に一節切は登場する。流房は『雅遊漫禄』の中で次のように述べている。慈覚大師(天台座主三世円仁)は阿弥陀経を唱える際に、音量不足を尺八で補ったという。この記録は、源顕兼編『古事談』(1212―1215)の中にも見られるが、しかし実際には、一節切は大きな音が出る楽器ではないので、音量不足を補うということは、直には信じがたい。一節切は、経を唱える際の音の増幅と旋律を支える楽器として使われたのであろう。 『近世奇跡考』(1804)の著者・山東京伝(1761―1816)は江戸時代後期の浮世絵師である。“おかざき女郎衆”という小歌は、寛文より元禄にかけて、一節切にも三味線にも合わせて歌われた小歌である、と書いている。この “おかざき女郎衆”は、明治期になって「文部省音楽取調掛」が発行した『箏曲集』の中に歌詞を変え「姫松」として掲載されている。この資料から一節切で流行歌を吹いたことが読み取れる。『南畝莠言』の著者、大田南畝(1749―1823)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人であった。『南畝莠言』(1817)には次のような記述がある。市橋家の臣山崎正峰は、19管の一節切を所蔵しており、これらの笛はいずれも名管であり、山崎氏は数十年の精力を尽くして収集した。南畝自身は、1816年11月2日夕に実際にこの笛を見ている。一節切の流行は廃れても、名管は保存されているのである。⑤ 井原西鶴(1642―93)は、二つの浮世草子に一節切のことを書いている。その1は、『西鶴諸国ばなし―不思議のあし音―』である。昔身分のあったであろう盲人が常に一節切を吹いた。その時に吹いた曲が小歌“吉野の山”であった。2つ目は、『日本永代蔵―才覚を笠に着る大黒―』である。泉州堺の若者であるが、何事にも器用で12の芸を身につけた。そのうちの一つが一節切であった。これらの記述から、一節切は一般には庶民によって吹かれた楽器であり、“吉野の山”は当時の流行歌であることが窺える。今後の方針 一節切に出会って15年の歳月を経ようとしている。最初に吹いた時は、息のスウスウいう風音ばかりで全く音にならなかった。ある程度音が出るようになり、譜書に基づいて練習を始めたが、なかなか音色には程遠かった。譜書の内容を理解し、それを奏法に生かすことが私の大学院で学ぶ目的であったが、文字を読むこと、その内容の理解で精いっぱいであった。 院生時代を通して嬉しかったことは、先生方の仲が良く、チームワークがよくとれていて、近づきやすかったこと、また「院生費」と呼ばれる育成金が付いていることである。修士・博士と通じてもらえ、書籍の購入、学会費、調査費などに充てることができ、かなり助かった。今後も継続されることを願っている。 逆にいくつかの苦しい思い出もある。一つ

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