GLOCAL Vol24
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2国際人間学研究科 国際関係学専攻 准教授宗 ティンティン(ZONG Tingting)中部大学国際人間学研究科博士後期課程満期終了、言語文化博士号取得。研究分野は音楽人類学で長年楽器を持って参与調査という手法で中国雲南省洞経音楽の追跡調査を行われて来た。2023年4月~8月まで在外研究の機会を頂き、雲南省全域に残されている道教儀式音楽「洞経音楽」の歴史的な変遷及び現状について調べることができた。功名の音楽――知識人たちに愛された「中国麗江洞経音楽」の世界礼音楽としてナシ族の知識人や裕福な階層の人々によって保存されてきたと考えられている。この音楽は「麗江洞経音楽」と呼ばれ、通称「ナシ古楽」とも呼ばれている。 長いナシ族史の中で、中原から伝来してきた麗江洞経音楽は、時代の推移とともに盛衰を辿ってきた。演奏する形態や目的は変わっていったが「工尺譜」という文字から構成される楽譜と歴代男性のみによる世襲制を保ってきた楽師たちの努力で、現在演奏されている古楽は昔のメロディーと大きくは変わっていない。麗江洞経音楽で使われる独特な楽譜「工尺譜」は他の雲南省の地域は全くなく、楽譜の制定の仕方と厳密性の高さから古代麗江洞経音楽の演奏者たち他の地域と比べると高い音楽教養が身についている事を判明できる。「厳密な楽譜+正確な口伝」を使用されたお蔭で麗江洞経音楽は昔のまま忠実に残された可能性が高いと推定される。文人の揺りかご麗江の「私塾」と科挙試験 1723年土司制度が廃止され、土司の特権である学問が解放されたので、1706年、麗課題の問題意識 中国の西南地区に位置する雲南省で約500年前から古い道教儀式音楽を残されている。これらの音楽は現在では「洞経音楽」と呼ばれ、雲南省の各地に様々な演奏方式として残されている。本稿では特に長年追跡調査をしていた雲南省の西北部麗江地区に残されている「麗江洞経音楽」と文人達の関係に焦点を当てて論じていきたいと思う。 音楽は「演奏者、楽曲、楽器」という三つの要素から構成され、中でも最も重要なのは継承の媒体「演奏者」である。演奏者の素質やレベルによって、後世に「口伝」で伝える正確さも変わってゆく。このあたりは確かに形では見えないが今の言葉で言い換えると専門的な教育を受けていないアマチュアの先生と教育演奏家先生の違いでしょう。麗江洞経音楽は他の地域の洞経音楽より歴史が古く、旋律はかつて明王朝の宮廷音楽の優雅さを持ちながら漢詩と共に多く残されている理由は、麗江の洞経音楽は原住民納西族の上層階級の文人達によって保護され、演奏され、継承されてきたものだからである。麗江に住む納西族(本文ではナシ族と称する)の文人たちの弟子は家業を継ぐために科挙試験で功名を取るため、科挙試験の神様である「文昌帝」を祭る道教儀礼音楽「洞経音楽」を日課にして何百年も科挙試験の制度と共に演奏し続けてきた。こうした音楽組織に対して「文人会」や「洞経会」のような呼び名があり、会長やトップの方は科挙試験で取得した功名の高い方が任命されることは一般的であった。こうした演奏者の身分から音楽性への影響についての研究は筆者が調べた中では殆どなく、楽器と楽曲を操る魂的な存在である「音楽家」の研究によって、なぜ「麗江の洞経音楽」は他の地域の洞経音楽と異なる原因を明らかにするきっかけとなることを確信している。納西族知識人達による「麗江洞経音楽」の繁栄 1253年~1723年までナシ族を統治していた木氏(納西族の酋長)は、漢民族の漢詩、音楽、文化、風俗などを熱心に習い、中原(黄河流域あたり)の皇族や有名な学者、詩人らとも深い付き合いがあった。こういった関係で、木氏が中原の都である「長安」や「南京」から洞経音楽という明朝の宮廷音楽と見られる音楽を自分の土司官邸に取り入れて発展させた。「洞経音楽」はつまり道教の経典『玉清無极总真文昌大洞仙经』(略称洞経)と『関帝覚世真経』を賛美する時に奏でる音楽でもあった。「文昌帝」が文科挙試験の昇進を司り神であり、「関聖帝君」が武科を司る神であり、ナシ族の知識人はこの二人の神を崇拝し、特に科挙試験を重視する文人たちは「文昌帝」の方をより多く祭るようになった。今日でも、ナシ知識人や裕福な人たちが集まる「洞経会」が古楽を談演(演奏の事)する時には、舞台の後ろに「文昌帝」の像が飾られている。それ以外の会場の配置でも、装飾などに道教的要素が色濃く表現され、談演するときの雰囲気も厳粛である(写真1参照)。しかし、木氏が政権を失った1723年以後、洞経音楽は木氏官邸から外に流出し、道教儀白華古楽会演奏会場の経壇(仏壇)(出典)2006年筆者の撮影による(筆者撮影)

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