GLOCAL Vol24
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2024 Vol.242024 Vol.242024 Vol.243「殷実之人談経班(洞経会の別称)」。これは「談経班は裕福な人しかいない」という意味である。このような言葉から当時の談経班は一般平民が参加できない特別な所だったと推測される。終わりに 1911年、辛亥革命により中国最後の王朝である清王朝が覆り、民国時代が始まった。当時の麗江府の府長(知事)である熊廷全が「厳禁封建迷信活動」という命令を下した。そのために「洞経会」の集会は禁止され、さらに祀った洞経会の仏像までも破壊することになった時、洞経会の会員である王晋谦(清、貢士)が熊廷全に報告書を提出した。その内容は、「衙門(市役所)が禁じた洞経を讃えることをやめますが麗江で数百年も伝承してきた洞経の音楽を保存するために洞経の音楽を演奏することはお許しください」というものだった。その要望は後に許可されたが、洞経音楽を演奏するために、以前の「洞経会」の名前は「麗江音楽会」に改名されたのである。なお、清の末頃に、多くの知識人や官僚が楽会に加入したことで、民間では「文人会」とも呼ばれている。 このように洞経音楽が科挙試験と共存してきたのは麗江の洞経音楽の重要な特色とも言える。同じ雲南省の県内の中でも他の地域と比べると麗江地区の洞経音楽の奏者は高い音楽教養を持っている事で奏でる音楽の旋律や演奏の技術や音程の正しさは遥かに高いレベルである。今現在麗江洞経音楽の演奏者は世襲制の方が多く、古楽の演奏が出来ることから自分たちは知識人という高い誇りを持っていることもインタビューで分かる。このように演奏者はなぜこの音楽を演奏するのか、社会においてどのような地位の方が演奏しているのかを分析することによって、伝統儀式音楽が果たしている社会的機能とその音楽の質の解明につながることができるでしょう。引用文献郭大烈・和志武(1999)『納西族史』四川省民族出版社。宗ティンティン(2007)博士論文『ナシ古楽の社会的変遷-復興から観光化へ』中部大学楊金山(2005)『麗江旅遊』雲南民族出版社。山村高淑、宗ティンティン(2007)『世界遺産と地域振興』世界思想社和雲峰(2004)『納西族音楽史』中央音楽大学出版社HP「中国科挙制度-百度文庫」(2023)江府が「学宮」を作ってから、一般の貧民の子どもでも勉学できるようになった。また、歴代の麗江府知府が学問を奨励したために、麗江から多くの人材が輩出した。特に1723年以後、学問をすることが麗江の風潮となった。孔子の66代目の孫孔興詢、管学宣などが、個人的に漢文学を教える学習塾を創り上げた(楊2005 p.103)。 さまざまな教育機関の中では、特に「私塾」の影響力が大きかった。ナシ族の人々は子どもを私塾に行かせ、科挙試験に合格することを目指した。その頃から大研古城には木氏家族以外にも各階層出身の知識人が数多く現われた。清末の科挙試験が終わる180年間の間に、科挙試験を受けた者の成績は、優貢3人、抜貢20人余り、副榜10人余り、挙人60人余り、進士7人(郭 1999 pp. 380-381.㏋中国科挙制度 参照)という優秀な実績から考えても、ナシ族が知識勉学に対していかに熱心であったかがわかる。「私塾」は麗江教育史の中でも見逃せない重要な教育機関であった。私塾に入るには年齢の制限はなく、費用も安価で、学習する年限もないので、貧しい家庭から裕福な家庭出身の子どもまで、誰でも気軽に勉強できる場所であった。こういった伝統的な教育機関から、ナシ族の多くの知識人が育っていった。文学を学習すると同時に音楽も教養の一部として学習することが不可欠となり、麗江に住む上流階級の知識人や裕福な人々が参加する洞経音楽を奏でる会「洞経会」の活動が非常に盛んになった。古楽もその知識人や裕福な人々の教養の一つとして継承されてきた。 筆者が2000年から実施し調査によれば、麗江大研ナシ古楽団の1930年前後に生まれた老演奏家で、私塾に通学した人も少なくなかった。老演奏家の話によると、当時は漢詩を習うだけではなく、中国の古典文学の「吟誦」(節をつけて詩文を詠誦する)も習っていた。このような吟誦は、北京や西安などの漢文の発祥地であった大都市では既に消滅しているのに、大都会から遥かに離れた麗江の私塾のお陰で、現在まで遺されている。洞経会の会則から見る会員の層 1550年代までに麗江を含めた各地で楽集会が結成され、中には「文洞経会」と「武洞経会」として分派した所もあった。洞経会は儒家礼楽の教えを主旨として、地方の名門弟子を集め、厳しい入会条件を作った。これはすなわち、洞教音楽が上流階級の音楽であり、一般大衆にとってはあまり身近なものではなかったことを意味している。 「洞経会」の主旨は、儒教の仁・义(義)・道・徳を中心に成り立っている。地方によって楽集会の名称も変わるが、共通点としては大体各々の名称の終わりに「会hui・学xue・堂tang・壇tan」という字が使われている。「洞経会」で行われる音楽活動では儒教の礼楽の教えが重視され、会員は知識人と貴族に限られていた。入会条件も非常に厳しく、「童tongsheng生」(未成年の学生)が入会審査を通過する条件は、品徳・学業が優秀で、過去3代に全て犯罪記録がなく、立派な家庭の出身で、そしてさらに本人以下子孫3代も含め、真面目になることを誓約することが必須であった。さらに、以下の二つの条件がついていた。一つは科挙試験で取得する成績によるものである。清末科挙試験が廃止されるまで、多くの進士や、挙人が会員として大研ナシ古楽会に参加していた。 第2の条件として、科挙試験を受けてはいないが、楽器の演奏や音楽、漢詩などの、文化的教養豊かな知識人も、会長の審査によって入会することが可能であった。麗江大研ナシ古楽会の会長は麗江歴代「木氏」が担当することも頻繁にあった(和2004年pp.26-39))。 伝承者の育成については、以上の条件を備えた10~12歳の少年(男子のみ)を弟子として募集し、養成した。最初は「工尺譜」の学習から始め、その後は既存の曲に古詩詞を付ける勉学を経て、曲を完全に覚えた後に、ようやく経文を歌えるようになる。楽器の練習では、自分が好きな楽器を選び、先輩が先生としてその指導にあたった。「洞経会」の間では、社会的地位に関わらず、入会した後はお互いを「友」と呼ぶ。会の運営費は政府からの援助ではなく、洞経会に入会した会員の寄付金で賄われていた。 洞経会が信仰する神は様々であるが、会員である知識人たちの多くが自らを儒教徒と自称し、「孔子」を信仰する者がその大半を占めていた。 麗江の大研鎮にあった「洞経会」は、「洞経」の歌唱が中心であり、会友は地元出身の官僚、文人、裕福な家庭の子弟から構成され、政治的・経済的・社会地位がかなり高い人たちであった。麗江の民間に次のようなことわざがある。

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