GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介10国際人間学研究科 国際関係学専攻 教授高 英求(KOH Youngku)1991年 京都大学大学院経済学研究科博士後期課程を単位取得退学。『貨幣の制御 流動性の理論・思想史』で博士(経済学)(京都大学)。経済学の「内」と「外」―経済理論とは何なのだろう―理論というものは…… ここで少し、「理論」の話をしたい。経済学、もっと広くいうと、文系における理論とは、何なのだろう、と最近つくづく思う。経済学は、おそらく文系の中でも、もっとも理論志向が強い分野だろう。数学的なアプローチがよしとされ、その傾向は強まるばかりである。 しかし経済学は、本当の意味で発展してきたのだろうか。精緻な数理的モデルは、何をどの程度、説明してくれているのだろう。社会を見る眼を、歴史を洞察する眼を、どれくらい豊かにできるのだろうか。 こういう問いに対して、最新の理論の有効性を説明してくれる専門家は、きっとたくさんいるだろう。しかし、誰にでも分かるように、普通の言葉づかいで、多くの人に納得のいく語り方をしてくれる経済学者は、どれくらいいるだろう。 経済学で語られることが、どうもしっくりこない、という人は、少なくないだろう。それを専門知識の不足のせいにするのか、あるいは経済学のアプローチそのものに、見直すべきところがあると考えるか、その違いは大きい。これはもちろん、経済学者の端くれ(であるはず)の私自身に、重くのしかかってくる問題である。経済学者による理論批判 理論、というものについて、もう少し考えてみたい。いったい理論とは、どういったもので、どのように用いられるべきものなのか。理論「研究」より「学問」 原稿のテーマが、「私の研究」ということで、「研究」というものについて、いろいろ考える機会になった。 研究という言葉には、けっこうな重さがある。長い間、その重さがつらかった。最近では、「研究」よりも、「学問」という言葉の方が好ましく思えてきた。「研(みが)いて究める」よりも、「学んで問う」という方が、しっくりくる。 もともとの言葉の成り立ちをよく知らないので、見当違いのことを言っているかもしれないが、とにかく、謙虚に学び、問い続けることができれば、という心持なのである。学ぶことの奥深さ もう4年以上前のことになるが、2020年に、ようやく念願の単著を出すことができた。『貨幣の制御 流動性の理論・思想史』(文眞堂)である。 遅まきながら単著が出せて、ほっとしたし、ほんとうにうれしかった。文眞堂から本を出せたのも、幸せなことだった。 ただ、これまでの研究をまとめることで、かえって大きな課題が現れてきたような気がする。思い考えてきたことを絞り出すように書いた本なのに、(関西弁でいうと)「ほんで、どやねん」、というような、内なる声が聞こえてくるのである。「これでええのか?」、「もっと深いとこに行かんでええのか?」、という声のようである。 新たな課題に向き合うのは、つらいところがある。でも、そうできたら、うれしい。とりあえず本を出せたからこそ、新たな課題に向かっていける、ということなのかもしれない。 学びというのは、終わりのないものだと、つくづく思う。苦しみながら齢を重ねて、ようやく出せた本であるだけに、この実感は、なかなか重い。「勉強したい」 先日、学生時代のゼミの友人から聞いた話である。同門の研究者に、「大学を定年で辞めたら何をしたい?」、と聞いたところ、「勉強したい」、という答えが返ってきたという。それを聞いて感動した、と話してくれたのだが、私も感ずるものがあった。 論文・本を書かなければ、という強迫観念のようなものが、研究者には、つきものだと思う。それでも、学問というものの根底にあるのは、何よりも、この「勉強したい」「学びたい」、という気持ち、姿勢なのだろう。 高みに立った話よりも、学ぶ喜び、面白さ、そして奥深さを伝えてくれる話を聞きたい。私自身が感動を覚えるのは、迷いや悩みを抱えながら、紆余曲折を経て思考を深めていく、そうした学者の歩みであり、それを率直に語ってくれる人である。 結論だけに学ぶのではない、という思いが強くなっている。問いを見つけ、道を探り、誠実に歩みながら、大切なことに、何とかたどり着こうとする、そういう人間的な営みに、心を打たれるのである。

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