GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2511る。ここで河合は、ユングの「シンクロニシティ」というアプローチについて語っている。これは、個人にとって偶然性がもつ意味を重視するアプローチのようだが、「本当?」と首をかしげてしまうところがある。 こうした深層心理学にしても、経済学にしても、「全てよい」というアプローチは、なかなかないように思う。どのような理論・思想にも、人間的な刻印がある。その刻印が強烈であるほど、慎重かつ良心的に対話をしていくことが必要とされるのだろう。 学ぶ、というのは、そうした人間臭さ、とらえどころのない人間の複雑な在りよう、そういったものまで含めて、全体的にとらえようとすることなのかもしれない。人間をどうとらえるか あまりに当たり前のことなので、こういうことを言うのは気が引けるのだけれど、要するに、人間を扱うには、とても深い人間理解が必要とされる、ということになるだろう。 人の心の奥底へと潜っていくと、不思議なもの、おそろしいものも出てきそうである。主流派経済学のように、常に合理的に計算・判断する人間、という想定にとどまっていられるなら、その方が楽だろう。 しかし現実には、不合理(あるいは不条理)と言いたくなることが間違いなくあるし、そうしたことは、むしろ本質的なものといってよい。 生身の人間を中心に据えるなら、不合理と思われるものにも目を向けなければならない。そのときには、人間がもつ闇や悪も直視しなければならなくなる。浅い人間像に止まっていると、思わぬところで足をすくわれるのではないか。 長い歴史の中で、人は自らの情念と、いかに向き合い、いかにそれを制御しようとしてきたのか。そこには、どのような智恵があったのか。引き続きマネーを一つの切り口として、考えていきたいと思っている。を用いるとき、注意すべき点はないのか。 経済学には、理論をめぐる論争がつきものである。それは、どの学問分野でも同じかもしれないが、経済学においては、政策上の争いと関わるので、他の分野よりも現実面での影響は大きい。 学問上の論争は、「どの理論が正しいか」、ということをめぐって行われることが多い。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、わざわざこんなことを言うのは、それとは違う次元の論争、もっと深いレベルの論争もある(あった)からである。 経済学の分野では、19世紀にリカードとマルサスの間で行われた論争がよく知られている。しかし、その真の論点が何だったのか、実はほとんど理解されてこなかった。論争から100年以上経って、それをあらためて問うたのが、ケインズであった。 ケインズは、経済学における「理論」とは何なのか、ということを問題にしたのである。リカードとマルサスの理論観には、実は大きな隔たりがあり、そのために二人の論争は、まったくといってよいほど噛み合あわなかった。それこそが、ケインズの強調したかったことだと見てよい。 おそらくケインズの真意は、経済学における理論の意味を問い直すことにあった。経済学の理論というのは、ある程度のところに止めておいた方がよい。それこそが、ケインズの論じたかったことではないか。 こうしたことは、ケインズを、そしてリカードやマルサスを理解するためだけでなく、人間・社会に関する理論とは何なのか、という問題を考える上で、重大な示唆を含んでいるように思う。経済学の「外」に目を向けると では、「外」の世界からは、経済学はどのように見られているだろうか。経済理論は数学的に精緻化されてきたが、はたしてそれは、広い「外」の世界で、魅力的に映るものなのだろうか。 拙著で述べたことだが、生身の人間が集団的に織りなす経済というものを、現代的な狭義の経済学だけで扱うことには、大きな限界がある。無理がある、と言った方がいいかもしれない。 これに関連して、心理学の河合隼雄と、免疫学の多田富雄との対談が示唆に富んでいて、大きな刺激を受けたので、紹介したい(河合隼雄他[1997]『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』新潮社)。 この対談で多田は、自ら変化をもたらす体の自己組織化に注目して、免疫を「スーパーシステム」という概念で説明しているのだが、その考えが経済や言語にもあてはまるのではないかと、次のようにいう。「経済活動とか言語形成とかいうのは、生命と非常によく似ていて、ひょっとすると、私はああいうものも生命なんじゃないかと思っています」(183頁)。 これを受けて河合は、経済学・社会科学を痛烈に批判する。「経済なんて超システムだと僕は思うんです。ところが今までの経済学は、古いシステムのモデルを考えて経済学を発展させたから、経済学は発展するけど、それはあまり経済の役に立たないんですね。そんなこと言ったら経済学者に怒られますけど。それは、社会科学全般の犯しているものすごい大きい失敗ではないかと僕は思っているんです」(183頁)。 河合によると、物質を扱っているかぎりは、「いわゆるシステム、固いシステム」で考えることができた。しかし、人間を扱うときに、そのような方法は大きな限界をもつ。さらに河合の発言を聴こう。「それがあんまりうまくいくので、人間が関係する社会とか経済とか、家族とか、そういうものに適応したシステム論で勉強してきた。役に立たない学問をたくさんやったのではないかというのが僕の考えなんです。われわれはすべからく人間のことをやっているものは、スーパーシステムで考えるようにせねばならないと思います」(184頁)。 経済学者の端くれなら、こうした「外」からの批判に反論せよ、というお叱りの声が聞こえてきそうである。だが、私にとって、この批判はとても痛い。というよりも、「たしかになあ」、という思いが強い。本質を突く、みごとな社会科学・経済学批判になっている。 ちなみに、注意しければならないこともあ

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