GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2513が、占いとしての風水がそれなりの力を持っている韓国や、迷信への風当たりの強い中国ではそうではないようである。 例えば韓国の知り合いの研究者が、一般向けの市民講座で、学術的な風水研究の話をしたところ、講演後聴衆の一人から「先生はいったい、風水を信じているのですか?いないのですか?」と問い詰められたという。風水占いを信じる人々と適切な距離を取るのは、日本よりもっと大変で、学術研究に余分に気遣いを強いられていると言えるだろう。 そもそも韓国では風水の学術研究がはじめられた1990年代にすでに論文として風水研究批判がされている。「そんな迷信を研究していると国が亡ぶ」というような内容であったと記憶している。 また以前日本で行われた東アジアの地理学に関する国際シンポジウムにおいて、日本人研究者の「風水も(一種の)地理学」というコメントに、中国から参加した研究者から「風水は地理学ではない!」と強く否定される場面を見たことがある。風水研究は進化したか? ここまで記したようなことがあったためか、近年筆者は、当初迷信として批判もされた風水がいかに現代東アジア社会に受容されたかについても関心をもち、新たなテーマを得ることとなった。ここまで記したようなこともあながち余計な苦労ではなかったのかもしれない。 また最近、『人文地理学事典』、『歴史地理学事典』が出版されるが、筆者にも依頼が来て執筆した。依頼された項目は前者が「風水と地理学」、後者が「東アジアと日本の風水」「聖なる地の認識-東アジア」であった。それなりの重要性は評価され、立ち位置ができたのかもしれない。 韓国でも「風水占い」がやや過去のものとなったせいか、風水は「民俗」という容れものに入り研究はしやすくなった印象がある。時が経つにつれテーマの評価は変わるということだろうか。このような意味で東アジアの風水研究は進展しつつあるのかもしれない。引用文献崔昌祚(三浦國雄監訳・金在浩、渋谷鎮明共訳)『韓国の風水思想』、1997、人文書院渋谷鎮明「李朝邑集落にみる風水地理説の影響」、1991、人文地理43―1、pp.5―25澁谷鎮明「現代韓国における風水地理思想に関する学術的評価―地理学分野の業績を中心として―」、2023,貿易風18、pp.46―54「風水」研究はほどほどに? 筆者は某国立大学の海外地域研究を行う修士課程で「地理学者ならではの韓国研究を」と考え風水研究を志した。根拠のない自信のあった筆者は、「どうせなら変わっていてドロドロとした韓国の本質に迫るテーマを」と考えての選択だったように記憶しているが、後から考えるにドロドロし過ぎていたようである。 その後、他大学の博士課程に進んだ筆者は、修士論文を基に、1991年に初めての審査論文「李朝邑集落にみる風水地理説の影響」を投稿した。朝鮮王朝期の行政拠点集落の空間構成や景観に風水が及ぼす影響についてまとめたものであったが、これが問題であった。後に聞いたところでは、自分の論文をめぐって学会の中では裏で大議論になり「こういう論文は載せるべきでない」と強硬に主張する委員がいて揉めているということであった。こちらとしては、揉めているところで審査をしてもらっていたわけで、若い院生としては怖いことこの上ない。 論文は半年以上かけて何とか学術雑誌に掲載されたが、好意的に考えてくれた委員もいたのか、テーマそのものが何か問題になることはなかった。それどころか、翌年の同じ学会誌の「学会展望」でこの論文が多くの評者に紹介され、「本格的朝鮮研究であると感じる」と過分な誉め言葉をいただいた。大学院の同級生に冗談半分で「おめでとう」と言われたのを覚えている。まるで激しく上下するジェットコースターに乗っているようであり、当時は状況の変化を見守るのが精いっぱいであった。 この評価は風水というより韓国語の文献を比較的丁寧に読み込んでレビューを行ったことが評価されたのかもしれないが、ここでようやく筆者は、自分が肯定的・否定的評価が入り乱れる特別な(変わった?)研究をしていることに気付いた。 そうこうしているうちに、今度は日本で「風水の学術研究ブーム」が起こり、さらには数年遅れて「風水占いブーム」が追いかけてきた。するとそれまで以上にいろいろな評価が押し寄せるようになった。 「授業で占いをするわけではないですよね」と学内で尋ねられたり、共訳の翻訳書『韓国の風水思想』を出した際には、初めてお会いした先輩筋の研究者らしい方に、「出会い頭に怒られる」という経験をしたりしたのもこの頃である。学会で上記の翻訳書を勝手に売っていると誤解されたようだが、そのついでに「韓国を研究するのになぜまた風水なのか」「君が風水師に入門するなら認めてやろう」というコメントをいただいた。 さらには、これも後から聞いた話であるが、某大学への教員採用審査の際に、筆者の研究テーマが風水であると知った審査委員が「ちょっと風水は・・・」と言ったとか、またほかの大学では「安易に風水研究に走ってしまう院生が出るのでは」という意見があったと聞く。どの程度本当なのかは不明だが、何らかの悪影響があると思われているのかと驚いた。 筆者は特に気の強い方ではないものの、このあたりまで来ると筆者自身、慣れてきたらしく、何というか次第に「打たれ強く」なって、やや理不尽なコメントを頂いても気にならなくなってきた。またむしろ自身の研究テーマが他の研究者のスタンスや、「科学」のありようなど、批判する者が依って立つ分野を脅かすような危険なものをはらんだ重要でスリリングな研究をしているのではないかと思い始めた。 このあたりの風水研究への評価の論理やスタンスは、筆者の専門分野が、空間、景観をキーとして自然・社会・人文科学が混在する地理学であることが一つの原因であるかも知れない。 「そんな怪しげな理由で現実の景観や土地利用は変わるわけはない」というところであろうか。また特に自然科学を方法論として持つ研究者には、同じ専門分野という身近なところに、「科学的」ではない怪しげな研究をする者がいるということは、看過できない大きな問題であったのではないだろうか。 これ以外にももちろん筆者の実力不足や、筆者に、当時の風水ブームに乗った、軽々しい研究(者)という印象があったためとも思う。海外の風水研究者の苦悩 それでも日本で風水研究をやっている分には「変わった研究されてますね」で済むのである図3 古地図にあらわれる風水の「脈」の論理

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