GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2527い。4町の山車は筒井町の場合とは違い、山車後方の楫棒も担ぐので、前方と後方を併せ12人の楫方が必要となる。人気のある役割であるが、地元の者だけで組むことは難しく、知人を頼って町外から応援に来てもらうこともある。少子高齢化の時代であれば、このようなことは致し方ないが、町内での担い手不足は、ますます顕著になるであろう。町外者に楫方を依頼することが一時凌ぎではなく、今後も続くのであれば、どのような人物が望ましいか、その条件を明確にしておくべきである。おわりに 今回取り上げた3地域の祭礼は、名古屋市無形民俗文化財に指定されており、その保存のための調査に筆者も関わってきた。高齢者に昔の祭礼のことを尋ねると、皆一様に祭りの日は小学校が休みだったという。それだけ地域社会に根ざした重要な行事であったが、現在は祭礼日が日曜日であるため、小学生にとっては特別感は昔ほどではない。 3地域は都市化による生活利便性のよさから人口は増えたが、地域コミュニティは希薄化しつつあり、少子高齢化と相俟って、後継者育成が深刻な問題となっている。若い世代、特に小学生の参加は、囃子方と、オマント行事では棒の手、山車行事では曳行の綱持ちであれば可能である。囃子方と棒の手は、女子が参加できない時代もあったが、最近は男女の区別なく参加できる。祭礼への関心を高めるには、このような参加体験が重要であり、それには地元の小学校の協力が是非とも必要である。昔の小学校は祭礼日が休みであったが、今の小学校には祭礼の後継者育成を兼ねて伝統的地域文化の学習が望まれる。 オマントの飾りつけや、山車操作などの技術面での継承には、マニュアルが必要となるが、文字化できない箇所は動画で説明できるようにデジタル化を推進してほしい。各人の職業が異なり、一堂に会して練習、打ち合わせすることが難しければ、オンラインミーティングはどうであろうか。鳴海の城之下町は、町内会の恒例行事や活動を画像で記録した日記をブログの形で公開しており、コロナ禍で山車曳行が中止になった年も含め、毎年の祭礼の様子がよく分かる。今後は祭礼記録のデジタル化も検討すべきと考える。参考資料「伊豆の国・山車横転事故 担い手不足が背景に 安全な祭り模索」東京新聞、2024年3月28日、TOKYO Web。「大森村祭禮記録 明和~平成年間」2014年。名古屋市教育委員会編『名古屋城下の山車行事調査報告書』名古屋市教育委員会、2018年。名古屋市教育委員会編『鳴海・有松の山車行事調査報告書』名古屋市教育委員会、2022年。彼らは楫棒に肩を入れて山車の方向を変えるなど、山車の曳行に見せ場を作る。楫方は8人で担当し、山車前方の左右の楫棒を4人ずつで担ぐ。聞き取り調査では、彼らは若連とも若い衆とも呼ばれていた。 若い衆もしくは若連とは、地域社会における若者の組織名称である。明治10年代から20年代にかけて、青年の地域集団としての青年会が全国的に組織されはじめ、筒井町でも結成されたが、明治43年(1910)に名古屋で開催された全国青年大会において、「青年団規十二則」などが議せられてからは「青年団」の呼称が優先することになった。しかし、その母体は明治時代以前からの若い衆であった。 神皇車と湯取車の楫方や、山車の方向転換、停止などをつかさどる役は、かつては名古屋で唯一の楫方集団「二番永田組」に依頼していたことがあった。しかし、1980年代になると、山車に楫棒を取りつける棒締めの方法や、山車の曳行に関わる技術を二番永田組に指導してもらい、それぞれの保存会が自前で楫方を担うようになったという。神皇車の棒締め作業(2015年10月4日) 保存会には下部組織として「神皇車若連」、「湯取車保存会青年部」があり、楫方に限らず、20歳代から30歳代にかけての地元民の活躍が目立つのは、このような下部組織がうまく機能しているからであろう。それでも筒井町にも少子高齢化による山車行事の継承問題があり、神皇車若連が2004年に作成した規則では、礼儀、作法、身だしなみに関する規定がある一方、筒井町在住者以外でも祭りが好きで、継続的に祭りに参加できる人で構成するともあり、柔軟な組織作りがなされている。若い衆と青年団は、構成員は同じでも、本来は別個の組織であった。戦後間もなく、青年団は解体したが、筒井町では祭礼組織として慣例的に若い衆の名称を残し、彼らは今も山車行事の重要な担い手となっている。 筒井町には集合住宅が建ち、人口は増えている。山車の曳行を見物する人々も多い。しかし、祭礼関係者の話では、新住民からの寄付金集めが難しく、以前に比べて金額が少なくなっているという。無形民俗文化財に指定されると、文化財の管理・修理・後継者育成等に要する経費が補助されるが、それはあくまでも経費の一部である。祭礼の準備段階からの飲食代や保険料は、保存会の経費となっている。鳴海裏方祭 かつて東海道の宿場として栄えた緑区鳴海町では、鳴海八幡宮と成海神社の祭礼に町ごとの山車が曳行される。その行事と各町内の山車は、いずれも2014年に名古屋市無形民俗文化財に指定されている。現在、鳴海八幡宮の祭礼を表方、成海神社の祭礼を裏方と称して区別しているが、本来は鳴海全体の祭りであった。両神社の神官による争論により、元禄13年(1700)に分離したと伝えられている。 鳴海裏方を構成するのは、丹下町、北浦町、花井町、城之下町である。聞き取り調査では、太平洋戦争前後のことを知ることはできなかったが、祭礼関係者によれば、1959年の伊勢湾台風以後に祭りが大きく様変わりしたという。この台風は伊勢湾の満潮時と重なり、高潮がゼロメートル地帯を襲ったため、東海地方は甚大な被害を被った。鳴海町でも家屋の半壊や、床上浸水などの被害があり、裏方4町も山車蔵が暴風で壊されるなどしたため、祭礼はしばらく中断し、やがて復活したが、その期間については記録がなく、詳しいことは分からない。中断していたときも、おそらく山車の手入れはされていたものと推測されるが、現在の祭礼を担う長老格の人々も、当時は小学生または中学生だったので、山車の管理については記憶がないという。復活後は祭礼日の短縮や曳行ルートの変更などがあったが、祭礼組織の役割分担が再編成され、現行の祭礼内容が実施されるようになった。 2020年、2021年は、コロナ禍により多くの伝統行事が中止されたが、成海神社の例大祭は規模を縮小して行われた。山車の曳行はなかったが、4町は山車蔵の前に山車を据えて手入れをし、飾りの大幕などの虫干しをした。山車行事は中止されても、このような作業は祭礼関係者の紐帯を強めることになる。コロナ禍も行われた虫干し(2021年8月1日) 裏方4町には、東区筒井町と同様に、町内行事を実際に担う若者組織として若連中があった。若連中に入るのは1軒から1人と決まっており、兄が入っていたところに弟が入ってくれば、兄は脱退することになっていた。現在の4町の祭礼組織は町ごとに異なるが、共通して若連中に相当する組織はなくなている。そのためか、楫棒を担ぐ楫方(地元では梶取)は若者ばかりではなく、中高年者も少なくな

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