GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2533相対的に低く、生活上の各課題の解決に適応した様々な行動調整が求められるため、多様な社会規範が機能し、共有される道徳の種類も多様になると考えられる。 本研究は、大島北部の笠利・赤木名の代官所から各集落までの直線距離と各集落で採集された民話の特性との関連を検討する。代官所から距離を隔てた集落ほど、採集された民話の種類がより多様であることが予想される。【方法】 奄美・笠利町昔話集(立命館大学説話文学研究会, 1985)、大和村の昔話(山下他, 1986)、瀬戸内町の昔話(登山, 1983)、奄美大島昔話集(田畑, 1978)、奄美諸島の昔話(田畑, 1974)に収められた民話を対象に分析を行った。日本昔話大成による昔話の一定の型を示す「大成番号」を用いて話の種類の多様性を検討した。大成以前の資料に基づく分類が行われているものは大成番号による再分類を行った。本稿では各集落で採集された民話のうち大成による分類を当てはめることができない、独自の話がどの程度含まれているかを多様性の指標とした。 笠利・赤木名の代官所跡から各集落への距離を計測する際には、集落内の祭祀施設と隣接して建てられる集会所の所在地を用いた。【結果と考察】 資料には全1031話が掲載されていた。大島内では77の集落から採話があった。大島以外の奄美諸島の民話や採集集落が不明のものを除いて、最終的に894話を分析の対象とした。うち390話に大成番号が付与されなかった(43.62%)。1集落あたり平均11.61話の採話があり、うち平均42.43%が大成番号による分類がなされなかった。代官所からの距離と、各集落における大成による分類がなされない話の割合の間の相関係数はr=.24であり、5%水準で有意な正の関連性が示された。仮説が支持され、代官所からの距離を隔てるほど民話における話の種類の多様性が高まった。 文化的産物に見られる特徴を社会生態学的に検討するうえで歴史・経路依存的要因は頼れる指標となることが示唆された。今後は、各民話に示される道徳的示唆をコード化し、環境要因との関連を検討していく。2005)に基づく解釈が可能であることが示唆された。また関係がより不確実なオトルに対する行動でテンゲルの懲罰神イメージが効果を持った。超自然的懲罰(Shariff & Rhemtulla, 2012)がどのような条件で機能するのか今後の詳細な検討が求められる。民話の多様性の社会生態学的検討 本研究は民間説話(folktale,民話)における道徳の多様性と地域の社会生態環境の関連を解明するため、その手始めとして、話の内容自体の多様性と環境要因が相互に関連することを実証的に検討する。 社会生態学的アプローチに基づく文化心理学研究は、心理・行動傾向に文化差が生じる理由を環境要因による影響から実証的に検討することを目的としている。しかし各個体が個人的学習に基づいて環境へ適応した場合でも同一の傾向が獲得される可能性がある(竹澤, 2012)。そこで社会生態学的アプローチにおいては、人々に共有された心理・行動傾向が再生産されるプロセスと社会的伝達のメカニズムを検討することが重要となる(村本, 2014)。ここでは、そのような社会的伝達と再生産のプロセスを検討するための一つの方法として、両者の結節点となる文化的産物(cultural products)に焦点を当てた検討を行う。物語、メディア報道、芸術などの文化的産物は、その文化で共有された心理や行動の特徴をよく反映している(Morling & Lamoreaux, 2008)とともに、そうした心理・行動傾向の再生産に寄与している。 本研究が注目をする民話とは民間に口頭で伝承された説話であり、民間の言語伝承の一分野となる。文字言語に依存しない自然的な口頭言語によって伝達・聴取され、また創造的営みである文学とは異なり誰しもが共同体の中で伝承し、また享受する(福田, 2000)。さらに民話は人々に共有された宗教的信念や道徳、社会慣習や教訓と密接に関わっている(Eliade, 1957; 関, 1967)ことから、文化で共有された心理・行動の傾向を検討する題材として民話に注目することには意義がある。本稿では鹿児島県の島嶼地域である奄美大島の民話を対象に、社会規範の在り方に対する社会生態学的アプローチを用いた検討を試みる。 社会生態学的要因の検討にあたり本稿では特に公的制度の実効性を取り上げ、対象地域が特徴的な近世の統治・社会制度を経験し、その影響の中で近代を迎えることとなった一連の歴史経緯に着目する(Nisbett & Cohen, 1996; Putnam, 1993)。 慶長14年(1609年)、島津軍の琉球侵略に伴い奄美大島もその統治下に置かれ、以降、各地域の行政官は大島内で徴用される島役人が充てられ、全体を統治する代官と代官補佐が藩政側から赴任した。制度上は権力を一元化した管理・統治体制となるが、実質的には島役人や豪農らの協力がなければ統治は不可能な状態であった。藩政側も土地改良等で功績のある者を武士格に取り立てるなどして、島内の社会階層構造を統治の効率化に役立てた。また石高制を基に、商品性が高い黒砂糖で年貢を納める換糖上納制と、最終的には徹底した専売制が敷かれ、加えて貨幣流通が禁止された。市場交換が極めて制限された社会経済風土となった。さらに藩政から通達された複数の法令集の分析から、公的制度のほかに、役得や蓄財を目的とした様々な利害関心が生み出す制度環境が存在したことが示唆されている(箕輪, 2021)。 以上のように近世奄美では、フォーマル・インフォーマルの複層的な社会階層構造の基で、市場が未発達という社会経済風土の中、一部権力の腐敗を含む(籾, 1980)、様々な制度的特徴に適応するやり方で、住民は自他の利害関心を調整する必要があったと言える。 また同時に、公的な社会制度が比較的濃く浸透した地域と、社会の各階層の私的な利害追求を制限することが困難で、公的制度以外にも実質上の様々な制度の複雑な影響の強い地域が発生したことが考えられる。享和元年(1801年)までという藩政期のほとんどの時期で、代官所(本仮屋)は現在の奄美市笠利を中心とする大島北部地域に置かれており、このことから統治の主体が常駐する北部地域とそれらから物理的な距離を隔てた地域という特性が浮かび上がってくる。北部においては公的制度の実効性が比較的高く、行動の結果の予測可能性が高いため、社会規範が明確で普遍的な道徳が醸成されやすいであろう。また距離を隔てた地域ほど公的制度の実効性が
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