GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介38国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 教授三浦 陽一(MIURA Youichi)東京大学文学部国史学科卒業、一橋大学大学院博士課程修了。米国ウィスコンシン大学歴史学部大学院修士課程修了。専門は日本現代史。主な著書に『吉田茂とサンフランシスコ講和 上・下』(大月書店)、主な訳書にジョン.W.ダワー『敗北を抱きしめて 上・下』(岩波書店)、同『戦争の文化 上・下』(岩波書店)など。天皇の戦争責任について―新渡戸稲造(1862―1933)と満洲事変―全文を紹介しよう。勅語 さきに満洲において事変の勃発するや、自衛の必要上、関東軍の将兵は果断神しん速そく、寡かよく衆しゅうを制し、速すみやかにこれを芟さん討とうせり。爾じ来らい、艱かん苦くを凌しのぎ祁き寒かんに堪へ、各地に蜂起せる匪ひ賊ぞくを掃そう蕩とうし、よく警備の任を完まっとうし、あるいは嫩のん江こう·斉ちちは々哈爾る地方に、あるいは遼西·錦州地方に、氷雪を衝つき勇戦力闘、もってその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり。朕ちん深くその忠烈を嘉よみす。汝なんじ将兵、ますます堅忍自重、もつて東洋平和の基礎を確立し、朕ちんが信しん倚きに対こたへんことを期せよ。 昭和7年1月8日 天皇がこの勅語を出す前に新渡戸は、 「どんなに勇敢な行いでも、正しくなければ賞めるべきではない。...それは将来の紛糾の種をまいているだけである。」(1931年9月24日『英文大阪毎日』編集余録、『新渡戸稲造全集』第20巻)と書いている。この言葉は、その後の日本帝国の進路を予言していた。 1932年2月、四国の松山での講演のとき、その直前に始まった上海事変(関東軍将校の謀略で、上海で日本人僧侶が中国人に殺害され、これをきっかけに日本陸海軍と中国政府軍が軍事衝突した事件)について、新渡戸がオフレコで語った内容が新聞に載った。 「上海事件に関する当局[日本政府・軍部]の声明はすべて三百代言さんびゃくだいげん[詭弁]的というほかはない。...上海事件に対 裕仁天皇に戦争責任はあるか。あるとしたら、あの戦争の何についてか。 これは現代史のテーマのひとつだが、歴史の専門家がこれを正面から論じるようになったのは案外と新しく、私が大学に入学してしばらくたって、井上清『天皇の戦争責任』(1975年、現代評論社)が出たころからである。戦後もだいぶ年月がたっていた。 私はタイトルにひかれて読み、天皇とは一種の職業政治家であって、資料をつぶさに検討すると、裕仁天皇の発想は、日本帝国の戦争を主導した陸軍の統制派と変わらないという指摘が新鮮だった。こういう率直な発言をする井上氏の勇気に感動した。私が歴史家になりたいと思ったきっかけのひとつは、この本である。 その後、昭和の戦争を勉強するにつれて、私は天皇責任論に不満を感じるようになった。新しい資料が公開され、本が何冊かでて、事実はいっそう明らかになったのだが、問題がクリアになった感じがあまりしない。個人の戦争責任のような繊細な問題をあつかうには、諸家の分析の多くは枠組みがあいまいで、そのために焦点を外しているのではないか。 ここでは、日本帝国が本格的に中国を侵略した満州事変(1931年9月~)のとき、裕仁天皇がどういう行動をとったかを考えてみたい。目線は、岩手県生まれの農政学者で、札幌農学校で内村鑑三と同級生、一高校長になるなど教育者であり、英文著作『武士道Bushido, The Soul of Japan』(1899)でも知られる新に渡と戸べ稲いな造ぞう(1863―1933)におく。新渡戸が裕仁天皇に会ったことがあるかどうかは、確認できない。* 第一次世界大戦の惨禍をくりかえさないために、1920年、国際連盟が結成されると、原加盟国のひとつだった日本を代表して、新渡戸は初代の事務局次長(1920―1926)としてジュネーブに旅立った。次長時代の新渡戸は、いまのユネスコの前身にあたる組織をたちあげている。 1931年9月18日、日本の関東軍が中国東北の瀋陽の郊外で、自分たちが守衛していた南満州鉄道の線路を爆破して、これを中国兵のしわざと主張し、全軍が出動した(柳条湖事件)。満州事変の始まりだが、その直後に書いたと思われるエッセイで、新渡戸はこう言っている。 「宣伝が愛国心の是認をうけると、虚偽は白昼堂々とまかり通り、大嘘つきであればあるほど尊敬されることとなる。...こんな戦争で勝利をえても、その勝利は征服する国家の歴史のぺージに永久に墨をぬるのだ。」(1931年9月19日『英文大阪毎日』編集余録、『新渡戸稲造全集』第20巻) どの戦争のことかは述べていないが、満州事変が関東軍の謀略であることを、新渡戸はいちはやく誰かから聞いていたようだ。平和と愛国の両立を信じていた新渡戸は、この頃から体調を崩す。 それから3ヶ月後の1932年1月、天皇は参謀総長を皇居に呼び、関東軍の軍功を高く評価する勅語を読み上げた。重要な史料なので、
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