GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2539引用文献井上清『天皇の戦争責任』初版1975年、現代評論社。現在、岩波現代文庫、2004年『新渡戸稲造全集』第20巻、教文館、2001年「関東軍へ勅語」(1931年1月8日)、山田朗編『外交資料近代日本の膨張と侵略』新日本出版社、1997年所収『牧野伸顕日記』中央公論新社、1990年しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか?」 日本軍の行動に疑問をつけた新渡戸から、友人たちが離れていった。そして在郷軍人会や右翼からテロの脅迫を受けた。新渡戸への脅迫は、日本軍の軍人や右翼が犬養首相らを殺害した五・一五事件(1932年)などと同様、日本の進路を左右したテロの一部である。 これよりさき、1924年にアメリカで成立した排日移民法に新渡戸は反発し、もうアメリカには行かないと宣言していた。新渡戸は、こうした自分の愛国感情も利用して、天皇が是認した満洲事変や上海事変を肯定しようと、内心努力したようである。 その後、日米関係がさらに悪化したと感じた新渡戸は、1932年、1933年と渡米する。当時の渡米は、片道二週間かかる船旅である。七十歳近かった新渡戸の健康にどういう影響があっただろう。目的は日米関係の改善だったが、日本は満州事変と上海事変で信用を失っていたので、新渡戸の弁明はフーバー大統領をはじめとするアメリカの要人に通用しなかった。アメリカの友人たちは、日本の行動を擁護する新渡戸を批判した。その間、日本は国際連盟を脱退した(1933年3月)。 新渡戸は日本でもアメリカでも孤立した。 1933年8月、帰国してから数ヶ月で、新渡戸はまた太平洋を渡った。カナダで開かれた太平洋会議(環太平洋地域の代表的知識人の会合。その提言は各国政府も注目していた)に出席し、ここでも平和を訴えたが、出血性膵臓炎で倒れ、1933年10月15日、カナダのビクトリアで71歳の生涯を閉じた。* 失意のうちに倒れた新渡戸とは対照的に、満州事変の実行者たちは、陸軍の中枢を占めていった。柳条湖事件のあと、関東軍の全軍出動を命じた関東軍司令官・本庄繁中将は、その後、侍従武官長(天皇を身近で補佐するベテランの軍人)、大将、男爵、金きん鵄し勲章(武功抜群の軍人にさずけた勲章)、枢密顧問官と、軍人として最高の名誉を受けた。本庄の次の関東軍司令官で、日本の「特命全権大使」として満州国を牛耳った武藤信義大将も元帥(大将よりも権威ある称号)、男爵となり、金鵄勲章をもらっている。佐官クラス(40代)では、満州事変の首謀者・石原莞爾中佐は陸軍参謀本部の作戦課長という花形ポストについた。石原とともに事変を画策した板垣征四郎大佐は、陸軍参謀本部長、陸軍大臣へと、石原以上の出世をとげた。 満州事変は、外国を侵略した点で、当時日本が批准していた国際法(国際連盟規約、不戦条約、九カ国条約)に違反し、天皇の事前の許可なく海外で軍事行動を起こした点で、国内法(帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、陸軍刑法第35条・38条擅権せんけんの罪、刑法第93条私戦予備罪)に抵触する違法性の高い行為であった。裕仁天皇は、自分の統帥権を無視して違法行為にでた関東軍を激賞し、首謀者たちの栄転を認可した。柳条湖事件から半年後、1932年3月に日本が「満州国」をつくったころ、裕仁天皇は、「満州に付ては此これまで都合好く進み来りたり。誠に幸いなり」と、参謀総長に語ったと記録されている(『牧野伸顕日記』)。* 日本の国際連盟脱退(1933年3月)は、ドイツの脱退(1933年10月)よりも半年ほど早かった。国際秩序を最初に破壊したのは日本帝国であった。 天皇は日本帝国の最大の後見人であった。満州獲得は、天皇が肯定したこともあって、軍部、政党、新聞、民衆、議会、つまり日本帝国の総意となった。しかし、満州獲得の代償は日本の孤立であり、孤立から脱出しようとして、日本は独伊と手を結び、盧溝橋事件(1937年7月)をきっかけに日中全面戦争に踏み切った。そして1941年12月7日、日本が真珠湾を攻撃しアメリカに宣戦布告したことに呼応して、数日後の12月11日、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。アメリカを戦争に引き込むことでアジアとヨーロッパの戦争を一体化させ、世界戦争にしたのも、日本帝国だったのである。 「朕ちん 深くその忠烈を嘉よみ す」― あの戦争は、満州事変を起こした関東軍を激賞し、日本帝国の侵略を「自衛」だとした裕仁天皇の勅語が招いた結果であるともいえる。しかし、当時30歳だった若い天皇に、私たちはどこまでどういう責任を問うべきなのか。 天皇の戦争責任というとき、最初にとりあげるべきは、この問題である。
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