GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介教員の研究紹介40国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 教授森田 朋子(Tomoko Morita)お茶の水女子大学大学院人間文化研究科(博士後期課程)単位取得退学。2003年、博士(人文科学)。専門分野は明治維新期の外交、領事裁判権問題。日本に住む外国人のトラブル、女性問題、結婚、また、日本から海外へ移民として出かけた人々のトラブルなどについて研究をおこなっている。濃尾地震と名古屋養老院~キリスト教徒の役割:佐伯好郎と岩崎義憲中央が礼拝堂、右はこの時点では無料宿泊所である。庭では食用の野菜が作られていたというので、手前には畑が写っているのだろう。佐伯好郎と岩崎義憲 養老院の最初の入居者は、ロビンソンが12月15日に帰宅途中に出会った84歳の女性である。5歳と7歳の少女を連れて、助けを懇願されたため、連れ帰ってきた。母親は既に病気で亡くなった夫の借金のため遊郭で働いていて、結局、少女は孤児院へ送ったが、老女を養うために計画を前倒しにして養老院を濃尾地震とキリスト教 1891年(明治24)10月28日に発生した濃尾地震は、日本史上最大の直下型地震といわれ、岐阜県本巣郡西根尾村(現・本巣市)を震源としマグニチュード8.0と考えられている。地震の揺れは北海道や南西諸島を除いて、全国で感じられたという。死者七千人、全壊の建物十万軒を超える被害を出した。マスコミによって全国に被害状況が共有され、募金活動がおこなわれ、各地から被災地へ医療関係者が入りボランティア医療活動がおこなわれた。名古屋城に駐屯していた第三師団は、負傷者の救助や炊き出しをおこなった。 これらの救済慈善活動にキリスト教徒が果たした役割は大きく、岐阜盲学校や滝乃川学園などこの時の活動にルーツをもつものも多い。 とくに震災孤児が娼妓として人身売買されることを阻止することに力が入れられ、孤児の引き取りは愛知・岐阜だけでなく東京・岡山など各地へ広がった。1887年に岡山孤児院を始めた石井十次は、11月4日には岐阜・大垣で事務所を設置して孤児の捜索にあたった。12月23日には名古屋市白壁町の土地建物が購入され、名古屋震災孤児院が開設された。カナダ聖公会宣教師ジョン・クーパー・ロビンソンと名古屋養老院 当時の名古屋には、内地開放前ではあるが外国人宣教師たちが居住していて、震災後は党派を超えて名古屋外国震災救済会を組織した。大量の義援金や救援物資が国内外の外国人から送られたが、それらを現地で受け入れ、そして日本人キリスト教徒組織などを通じて、分配をおこなった。 この組織のNo. 2、事務局長をしていたのが、カナダ聖公会宣教師のジョン・クーパー・ロビンソン(Robinson, John Cooper, 1859―1926)である。ロビンソンには1912年に日本での活動をまとめた著書がある。また、写真家でもあり、近年、カナダのブリティッシュコロンビア大学に七百枚のガラス乾板スライドを含む四千点以上の写真コレクションが寄贈された。その中には濃尾地震に関する写真も十数点存在している。彼の子孫でもある同大学のベンジャミン・ブライス氏によってロビンソン研究は進展をみせている。 さて、ロビンソンは震災後も各地を巡回していたが、社会的弱者である子供と老人のうち、子供への対策は取られつつあるが、老人に対して何も行われていないことを懸念した。東京在住の英国聖公会主教エドワード・ビカステスと相談して、12月9日の居留地新聞『Japan Weekly Mail』に施設の設置のための寄付を呼び掛けた。 1992年1月1日には、家を借り、寮母を雇って名古屋養老院の運営を始めた。岡本多喜子氏によると「養老院」と名付けられた嚆矢であるという。その後も入居者が増えたため、春に名古屋市横代官町一五番地(現、名古屋市代官町)の約300坪の敷地を購入して建物を新築し、翌年1月に入居したという。次の写真は1895年以前に敷地の南西角から撮られたものである。左の建物が建坪約72坪の寮、最初の入居者。当時89歳
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