GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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2025 Vol.252025 Vol.252025 Vol.2541など様々である。たとえおやつのための1ドルでも日本では2円以上になった。 なお、幻燈は当時の日本でも寄付集めの手段として用いられ、震災後に長崎で開かれた「慈善音楽幻燈会」約は560円の収益を被災地に送り、やや時期は遅れるが岡山の音楽幻燈隊なども有名である。養老院のその後 1892年にロビンソンのもとで始動した名古屋養老院は、1906年には閉院された。しかし、養老院の試みは、一般的に養老院の嚆矢とされる1895年設立の聖ヒルダ養老院へとうけつがれる。聖ヒルダ養老院は東京の英国聖公会が女性のために設立したもので、形を変えながら現在も存続している。 次に開設された老人施設は、実態はほとんど不明であるが、1898年設立の名古屋市中区松江町の帝国養老教会であるという。名古屋には1901年に仏教系として最初の施設である空也養老院が名古屋市中区養老町に開設されている。これは1906年に名古屋養老院と改称され、少なくとも1935年まで活動している。 ロビンソンの養老院が開設されたとき、仏教徒との間にトラブルもあったが、キリスト教の慈善活動という行動は、仏教徒にも大いに刺激になったと考えられる。引用文献森田朋子(2024)「濃尾地震と名古屋養老院・幼老院―カナダ聖公会ロビンソンの活動について―」『年報近現代史研究』16号。岡本多喜子(2011)「明治期に設立されたキリスト教主義養老院の研究」『明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報』41号。林上(2010)「濃尾地震再考―過去の震災に学び未知の地震に備える」、『アリーナ』9号。法本義弘編(1970)「佐伯好郎先生年譜」『佐伯好郎遺稿並伝』佐伯好郎伝記刊行会。大江真道(1988)「名古屋幼老院について」、『現代社会福祉の源流―日本聖公会社会事業史』聖公会出版。Bryce, Benjamin(2022),Seeing Japan: A Canadian Missionary’s Photography and Transpacific Audiences, 1888―1925, “Pacific Historical Review” 91(2).Ruxton, Ian, (ed.)(2014),“The Correspondence of Sir Ernest Satow, British Minister in Japan, 1895―1900”, Vol. 3, Lulu.com.Robinson, J.Cooper, (1912)“The island empire of the East: being a short history of Japan and missionary work therein with special reference to the mission of the M.S.C.C”, Toronto: Prayer and Study Union of the Missionary Society of the Church of England in Canada.設置することにした。 なお、養老院の設置人の一人に、後に景況研究者として有名になる佐伯好郎(1871―1965)がいる。佐伯は築地聖パウロ教会青年信徒による罹災者救援隊の隊長として、被災地名古屋へ駆けつけた。佐伯の『年譜』には「此の時偶ま出会った罹災老婆の話に同情し、大須遊郭に娼妓となって居る其の嫁女救済のために奔走する。不幸成功は見なかったが、これが我が国に於ける娼妓解放運動の先倡となった。この時彼の主張に共鳴した名古屋地裁の検事が後に廃娼運動に挺身して名弁護士の名を謳はれた岩崎義憲(後の岳父)である」(『年譜』、p. 6)とある。 佐伯はその後、カリフォルニア、トロントへ留学し、帰国後、名古屋に戻り岩崎の長女と結婚した。トロントではカナダ帰国中のロビンソンと再会していたことも考えられるだろう。佐伯と岩崎は1895年に名古屋養老院の管財人を務めていて、法人化前の教会財産の保護のために活躍したと考えられる。幼老院への改名そして閉院へ 1893年末に名古屋の震災孤児院は資金不足のため、岡山孤児院への吸収合併という形で閉鎖された。おそらくその関係だと思われるが、1894年から9名の少年を名古屋養老院で引き受けることになった。Yoro-Inという音が同じであり、実態を表すことができるとして、養老院を幼老院と呼ぶようになった。1895年時は障碍者を含む15名の成人と13名の少年が在籍していた。 震災孤児院のシステムに倣い、少年たちは午前中は普通の初等教育を受け、午後は仕事あるいは職業訓練のような形で将来設計を立てさせるようにした。老人たちだけの時も、生活のためというよりも生きがいのために様々な仕事を探してきて、入居者にできる仕事をさせていた。綿の紡績と機織り、衣服の制作や補修、わらぞうり・箸・扇子の製作、帽子のためのわら編み、磁器絵付けのための研磨絵の具、園芸などがおこなわれたようである。 その後、幼老院は新規の老人入居者をやめて、青年院へと移行しようとした。彼らの中からキリスト教に入信し、聖職者への道へ入るものがでることを期待していたと考えられる。しかし、年頃の少年たちが集団で生活するには様々な問題も起こったようである。キリスト教養老院として、職員は無償奉仕、居住者にも無償で仕事に従事することを求めたが、さまざまなトラブルが起きたようである。 ロビンソンはカナダに帰国したり、必ずしも名古屋に配属されなかったこともあり、最終的には1906年に閉院し、その後はキリスト教青年の下宿となった。名古屋養老院の運営 養老院では年報を毎年400部印刷し、内外の寄付者へ送付していた。本稿のもとになっているのは、イギリス外交文書の中から見つかった2冊の年報である。数年分ではあるが、養老院の実態、財政状況が確認できる。 1895年の収入は約660円、支出は約490円だったが。居住者は多少の仕事をおこなっていたが、収入のほとんど約510円は寄付によるものであった。寄付の内訳は、国内からが約166円(14件)、海外からが約346円(32件)であった。国内の寄付は、先述のビカステスをはじめ、聖公会などのキリスト教宣教師または神戸などキリスト教会から贈られたものであった。もちろんロビンソンからの寄付も含まれている。海外からの寄付は、多くはカナダからのものである。 寄付金は、最初の年に約1200円ほど集まり、約800円ほどが土地の取得や建物建設に使われた。災害後であり、新規事業立ち上げに賛同した人が多かったからこそ、これほどの寄付金が集まったのであろう。しかし、継続的に寄付金を集めていくことは簡単なことではない。 ロビンソンは養老院が運営されていた15年の間に2度ほど本国カナダへ帰国している。一度目は1894年から95年にかけてである。1895年のカナダからの寄付金収入は、ロビンソンのカナダでの活動が大きかったと考えられる。ロビンソンはカナダ各地の教会で精力的に講演会を開いた。ロビンソンは写真家であることも述べたが、講演では「幻燈」(ランプとレンズを使いガラスの画像を幕に投影するもの)が使われ、未知の国日本を存分に紹介できたと考えられる。ロビンソンは生涯を日本伝道に費やすが、移民問題で日本人排斥が起こるカナダでの講演会はその後も続けられた。カナダでの日本イメージは決して一面的なものではなかっただろう。 カナダからの寄付は、決して大口寄付ばかりではなく、教会・日曜学校や一少女の寄付
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