GLOCAL 2025 Vol.25(Special edition)
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修了生からのメッセージ修了生からのメッセージ修了生からのメッセージ修了生からのメッセージ院生の研究紹介院生の研究紹介院生の研究紹介院生の研究紹介56れている。理由は、皇位継承問題等がある。それをきっかけに頼康は管領細川頼之との対立が生じその結果、応安の政変や康暦の政変が勃発する。その事により、義満との関係悪化にも繋がったと考える。ただ、山田氏は「一族全体でいえば幕府に奉仕する姿勢は崩したわけではなかったし、(中略)頼康は守護にも在任し続けていた。」と述べているが、後に起こる土岐康行の乱を鑑みれば、応安の政変や康暦の政変がきっかけになったのは間違いない(6)。小結 以上のように、南北朝における土岐氏と室町幕府の関係を政治史的に見てきたわけだが、全体的に見れば土岐氏は室町幕府と友好な関係を築いているといえる。そこで、修士論文では政治史的視点を持ちつつも幕府儀礼(偏諱・官職・家格)を中心に南北朝期から戦国期にかけての土岐氏・斎藤氏と室町幕府との関係を論じていきたい。引用文献(1)丸山裕之『図説室町幕府』(戎光祥出版、平成三〇年)、木下昌規・久水俊和編『足利将軍事典』(戎光祥出版、令和四年)(2)亀田俊和・杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、令和三年)、谷口雄太『足利一門と動乱の東海』(吉川弘文館、令和六年)(3)谷口研語『美濃・土岐一族』(新人物往来社、平成九年)、横山住雄『美濃土岐氏』(戎光祥出版、令和六年)(4)「難太平記」(『群書類従』二一輯、(続群書類従完成会、昭和七年)(5)山田徹「土岐頼康と応安の政変」(『日本歴史』、七六九、平成二四年)(6)山田徹「南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(中)―康暦の政変以後の政治過程と細川氏・山名氏・土岐氏」(『文化学年報』、六七、平成三〇年)はじめに 2000年代以降、足利将軍や室町幕府に注目が集まり研究が進歩している(1)。とりわけ、将軍と有力大名という関係を中心に論じられてきた(2)。その中で、守護大名である土岐氏の研究も様々な視点から進展を見せる(3)。そこで本稿では、南北朝期における土岐頼遠・頼康を中心に室町幕府の関係について政治史という面から先行研究を踏まえた上で紹介していく。最後に修士論文に関する概要を説明する。土岐頼遠と室町幕府の関係 土岐頼遠と室町幕府の関係は、政治史的に説明するのは難しい。なぜなら、頼遠に関する史料が乏しいからである。ただ、頼遠は数々の戦で武功をあげ勇将として捉えられている一面がある。例えば、青野原の合戦において「難太平記」に「青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞えし也」と記載されている(4)。その事から、軍事面において幕府は土岐氏に期待していたと考えるべきであろう。 しかし康永元年(一三四二)に、光厳上皇に狼藉を行った事で幕府の信用が低下したのは間違いない。それどころか、一族滅亡の可能性もあったと考える。それ故に、頼遠の印象は勇将というより傍若無人なバサラというイメージの方が強いといえる。その後、頼遠は六条河原にて処刑され家督は土岐頼康に引き継がれる。土岐頼康と室町幕府の関係 次に、頼遠の死後、家督を引き継いだ土岐頼康と室町幕府との関係を見ていく。結論から言えば、足利尊氏・義詮期に関しては、信頼が高いとされている。理由は二つある。第一に、軍事面である。頼康は、先行研究でも明らかにされているように合戦時において一貫して尊氏・義詮に与したとされている。例を挙げると、観応の擾乱である。観応の擾乱において幕府は、近江・美濃・尾張の三か国に対して半済令を出した。中でも、美濃・尾張の二か国は頼康が守護している地域である。そのような事から、幕府は頼康に対して期待していたことが窺える。それと同時に、山田徹氏は「尊氏・義詮にとって美濃は生命線ともいえる肝心な地域であり(中略)土岐氏は外様守護ながら死活を握る重要な与党だったといえるであろう。」と土岐氏が守護している地域の重要性を論じている(5)。その後、乱が消息するにあたり土岐氏は、京都の治安維持にあたっており頼康や直氏が侍所頭人を勤めている。その甲斐あってか、頼康は仁木義長失脚後、義詮に伊勢守護を任じられ合計三か国の守護大名となる。この事から、土岐氏は軍事面に限らず在京活動にも力を入れていたことが先行研究からわかる。 第二に、幕府の重鎮として扱われていた点である。頼康は、幕府の重鎮として応安元年(一三六八)から三年(一三七〇)まで評定衆として出仕している。また、評定衆以外にも訴訟問題に関わっている。その他、頼康以外の土岐義行(後に康行)は義満の近習を勤めているだけでなく将軍から「義」の一字を賜っている。以上の事から、尊氏・義詮期においての土岐氏は幕府からの信頼が厚かったのは間違いないだろう。 しかし、義満期には頼康は幕府の中枢から外南北朝期における土岐氏と室町幕府の関係国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程1年伊藤 優太(ITO Yuta)2000年生まれ。三重県桑名市出身。2024年3月に愛知文教大学人文学部・人文学科を卒業後、同年、中部大学大学院国際人間学研究科歴史学・地理学専攻に進学。専攻は、日本中世史。卒業論文では、「戦国期における美濃明智氏の実態について」という題名で伝記史料や系図を用いて明智氏の実態に迫った。修士論文では、南北朝から戦国期かけての土岐氏・斎藤氏と室町幕府との関係性を幕府儀礼を通して明らかにしていこうと試みている。

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