GLOCAL 2025 Vol26
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8の後陣を置いておくとしている。この事から、土岐氏にとっては供奉を放棄したにもかかわらず義尚は土岐氏の為に後陣をあけおかれただけでなく代役も立てられていない。故に、将軍による土岐氏への配慮が窺える。 一方の、土岐氏も供奉には参陣しなかったものの献金や進上を行っている9。また、六角氏討伐の際には土岐成頼・政房が参陣する等幕府に奉公する姿勢を見せている。小結 以上のように、土岐氏は、足利義満・義教・義政の右大将拝賀式の供奉に加わっており、そのような中で、義政期は管領に代わり五番の後陣を務めた。また、足利義尚の右大将拝賀式は不参したものの五番の代役を立てられていなく、それなりに将軍から配慮されている。これらの事から、儀礼から見る土岐氏の立場は更に評価する必要がある。引用文献1 佐藤進一『室町幕府守護制度の研究 上』(東京大学出版会、昭和42年)、秋元信英「土岐一族の抬頭」(『国史学』、75号、昭和42年)等2 苫居研太「加賀富樫氏と室町幕府」(『大阪公立大学大学院研究科都市文化研究センター』26号、令和6年)3 『花営三代記』(『群書類従』16輯(続群書類従完成会、昭和7年)4 桃崎有一郎『室町の覇者足利義満』(筑摩書房、令和2年)5 『薩戒記』(『大日本古記録』(東京大学史料編纂所、平成25年)6 『家中竹馬記』(『群書類従』23輯(続群書類従完成会、昭和7年)7 『大乗院寺社雑事記』(角川書店、昭和39年)8 前掲註6書9 「足利義尚任大将祝要脚進納注文」(「蜷川家文書」、『戦国遺文 土岐・斎藤氏編』99頁(東京堂出版、令和5年))、前掲註6書はじめに 土岐氏の研究は、1960年代以降、佐藤進一氏等をはじめとする研究者が様々な観点から考察し、着実に蓄積されつつある1。 しかし、儀礼の面において土岐氏の立場を検討する専論は管見に及ばず、検討の余地が大いにあると考える。そこで本稿では、文明18年(1486)7月29日に行われた足利義尚右大将拝賀式から土岐氏と室町幕府の関係を考察し、儀礼における土岐氏の立場について検討していく。右大将拝賀式から見る土岐氏 まず、右大将拝賀式とは、足利将軍家が朝廷に対して廷臣である事を示す行事であると同時に将軍の代替わりを喧伝する一大セレモニーでもあった2。また、朝廷に対して感謝する儀式でもあったとしている。とりわけ、一騎打である管領・畠山氏・佐々木氏・富樫氏・土岐氏が重要な役割を担ったとされる。そうした中で、土岐氏が右大将拝賀式に初めて供奉したのが、康暦元年(1379)7月25日の足利義満右大将拝賀式の供奉である3。この時、布衣馬打を土岐詮直が勤めている。この布衣馬打とは、狩衣を着て騎馬する幕府の武士とされている4。また本来であれば、土岐氏の当主である土岐頼康や守護代である土岐直氏が勤めていそうなものだが、直氏の子である詮直が務めているのも興味深い。なぜなら、他大名は何れも当主が務めているからである。おそらくこれは、以前に義満が頼康を討伐しようとした事が考えられる。 次に、史料から確認できるのは永享2年(1430)7月25日の足利義教右大将拝賀式である5。この時は、当主である土岐持益が一騎打として供奉している。 続いて、康正2年(1456)7月25日に開催された足利義政右大将拝賀式は、土岐成頼が一騎打として参陣しており五番の後陣を務めている。本来、五番は管領が務めるところとされるが、義政期では伊勢氏が新たに入り込んだ事から土岐氏が五番の後陣を管領の代わりに担っている。この事は、土岐氏にとって誉れであろう。理由は、土岐氏は「御一家(足利一門)の次、諸家の頭」と説かれているからである6。 しかし文明18年(1486)7月29日の足利義尚右大将拝賀式では、五番の後陣に土岐氏の名が無く土岐氏は不参のまま右大将拝賀が行われている。実際、『大乗院寺社雑事記』文明18年7月29日条でも確認したが土岐氏不参で行われている7。その原因は、『家中竹馬記』に記載されている8。それによれば、「右後陣之供奉如先例。当方被仰出之處。去明応九年(文明9年ヵ)十一月十一日諸家京都之御陣を退き。各分国に御下向以来。瑞龍寺殿(成頼)。濃州に御在国あり。先年慈照院殿御拝賀之時御存知之儀なり。当時は難調歟。御延引有るべき様に御油断有處に。御拝賀既に御治定之由注進の間。御遅怠に及べり。誠に御越度之由被仰候也。然共後陣の供奉。土岐ならでは参勤之先例なしと後陣をあけをかれたり。(以下略)」としている。つまり、足利義尚は先例の如く土岐氏に右大将拝賀式の供奉を勤めるように要請したが、文明9年11月11日には応仁の乱が終結し諸家は京都の陣を退き各分国に帰還しており土岐成頼も美濃国に在国していた。そうした中で、右大将拝賀式が延引されると噂されており成頼が油断している所に、既に右大将拝賀式が決定したと報告され成頼の返事が遅れた為、義尚が土岐氏ならでは参勤の先例なしとし、後陣をあけおかれたとする。その後、「長享元年九月十二日江州南部に御動座時。御参陣有て上意前々のごとく也。今度後陣あけをかれるゝ事。先規被思召。上意誠忝御事。御面目之至也。」としており、義尚は六角氏退治の際にも五番儀礼から見る土岐氏と室町幕府の関係性国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程2年伊藤 優太(ITO Yuta)2000年8月11日生まれ。三重県桑名市出身。2024年3月に、愛知文教大学人文学部・人文学科を卒業。同年4月に、中部大学大学院国際人間学研究科歴史学・地理学専攻に進学。専攻は、日本中世史。修士論文では、「儀礼から見る土岐氏と室町幕府の関係性」というテーマで室町幕府における土岐氏の位置づけを儀礼から試みている。
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