GLOCAL 2025 Vol26
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2025 Vol.262025 Vol.262025 Vol.269桑原を経由した点などは、東美濃の天正二年の明知との関係や、多くの研究者が武田の岡崎侵攻を検討する際、大岡弥四郎との関係性を持ち出す根拠となる後世史料である「岡崎東泉紀」や「伝馬町旧記録」との整合が一部にみられる箇所もあることから、あくまでも参考資料として取り扱い、必要部分を検証して事実関係を築き上げていくことが現実的かと考える。 本研究の目的は、天正二年から三年にかけて東美濃、西三河賀茂郡と立て続けに起きた武田軍の侵攻が、関連性を持って語られるべき出来事であり、これらの動きを少しでも明確にすることである。おわりに 今日まで東美濃と西三河賀茂郡との当該時代の関連性についての研究は、ここまで知り得ていない。それぞれが別々に語られてきたためである。今回取り組んでみて、現存資料の少なさや一次資料である文書の年次比定などが、今日まで研究を遠ざけてきた原因でもあった。 こうした観点からすると、設定した目標を達成するにはかなりの労力が必要となるが、東美濃や賀茂郡に今も伝わる伝承の中から少しでも事実関係を探し出すことが課題であり、現在はその研究作業に傾注しているところである。参考文献①新修豊田市史2通史編(令和2)・同6資料編(平成9)、②愛知県史資料編10(平成21)・同11(平成15)、③土岐市史(昭和45)、④瑞浪市史(昭和49)、⑤恵那市史(昭58)、⑤中津川市史(昭和43)、⑥岩村町史(昭和57)、⑦明智町史(昭和35)、⑧足助町誌(昭和50)、旭町誌(昭和56)、⑨天正三年武田勝頼岡崎攻落作戦 村岡幹生(岩田書院 令和5)、⑩戦国大名武田氏の外交と戦争 小笠原春香(岩田書院 平成31)などはじめに 天正三年(1575)五月に起きた「長篠の戦い」は、多くの先行研究があり今でも研究は積み重ねられている。甲斐武田勝頼の戦いの目的も三河への侵攻で概ね一致している。 さらに武田軍は徳川家臣の大岡弥四郎の謀反に乗じて、岡崎を目指すものの、その謀反の未遂から結果的に長篠で戦うことになったわけだが、その勝頼隊とは別に賀茂郡足助経由で岡崎へ向かう武田軍があった。その動向についてはほとんどわかっていない。これらについては同時代資料と後世史料が混在しており、真実が見えづらくなっていることが原因の一つであると考えられる。東美濃への侵攻 天正二年(1574)一月から武田軍が東美濃地方にやってきて、前年から武田方となっていた岩村城を拠点に織田方の遠山十八城をことごとく落とし、さらにあわせて東美濃地域の多くの神社・仏閣に火を放った。しかしながら現在一次資料で確認できるのは、岩村、明智の落城、そして付近の小城のいくつかである。現在までに調査しただけで五十に及ぶ小城・砦、神社などや戦いにまつわる伝承は、後世資料や地域に伝わった口伝などが中心であり、非常に解明の難しい部分である。それらの多くは増幅されたり、英雄譚として美化され、実態がほとんどつかめない。 武田は地域の国衆を調略して領土の拡大を図っている。例えば永禄以前の恵那・中津川は、南信濃の小笠原氏や木曽氏による影響力が強められている。当時の東美濃西部の動向は、いま一つはっきりしないが、武田の影響力が及んでいたと考えられ、永禄八年、織田信長がようやく美濃を手中に収めた頃から、東美濃も織田、武田の力のバランスのもとで両属する状態になった。その均衡が破れ、また武田の三河侵攻の前哨基地としての役割を与えられたかに見える東美濃侵攻の、多くの伝承等の事実関係を調査している。三河国賀茂郡侵攻から岡崎へ 天正三年四月中旬から賀茂郡の足助城が攻撃され、それに伴い近辺の小城も落とされた。それは、この攻撃を担当したとされる武田の武将山県昌景や武田勝頼の文書から確認できる。しかし、ではなぜ足助を攻撃したのか。その目的も明確にされておらず、先行研究からもほとんど言及されることなく軽く触れられた程度になっているか、足助を経由して長篠の一大決戦に臨む通過点的な扱いである。判明する事実だけを見れば、そのようにとらえざるをえない。 現在の新修豊田市史をはじめ旧足助町誌などの当該部分は、後世史料に立脚して書かれていると思われる。その資料は「嶋村家根元慶図記」と呼ばれる、豊田市内嶋村家に伝承した慶図記で、地元神社との関わり、また天正二年の賀茂郡における武田軍の動向などの記述がある。特に本慶図記の主人公ともいえる人物と、武田武将のやり取りは、リアルに描かれているしそれに伴う遺構なども地域に伝存する。 これら二次史料の取り扱いは迷うところではあるが、例えば、「天正二年に山県昌景がやってきた」の部分とか山県軍が岡崎へ侵攻する際、「元亀・天正年間における武田対織田・徳川の抗争」―東美濃・西三河における動向―国際人間学研究科 歴史学・地理学専攻 博士前期課程2年塚本 仁(TSUKAMOTO Hitoshi)昭和28年生まれ。岐阜県土岐市出身。昭和51年明治大学文学部卒業。社会人を経て令和6年4月、中部大学国際人間学研究科歴史学・地理学専攻課程へ入学。専攻は日本中世史。とりわけ地域の戦国史は未解明な部分が多く、伝承や遺構は残るが、確たる実証が少なく研究の進展がみられない。今回天正3年(1575)の「長篠の戦い」につながる西三河賀茂郡における武田・徳川の抗争、その前段階となる東美濃地域における武田・織田の抗争から、武田の動向、さらには侵攻の目的を明らかにする。

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