中部大学教育研究23
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直しが求められていると考えられる。野崎(2015)は、日本の障害児教育には、発達を保障するための適切な環境を権利として要求する「発達保障論」と、障害児と健常児がともに生活し育ち合い、学び合おうとする「共生教育」の2つの思想があるとしている。そして野崎は、生は「根源的に他者とは異なる存在」として、「発達」観の転換に基づく教育の意義に言及している。それは、子供の身体的・知的・精神的な機能を望ましい方向へ導こうとする従来の発達観から、「自分と異なる存在と出会い、あるいは出会い損ねながら、世界を感受していくそのプロセス」を支えていく、この社会における「人と人とのつながり方を軸とする発達」観へ転換し、「自分とは異なる存在との出会いに対する責任」に基づく「主体」形成の教育である。野口(2020)は、日本におけるフル・インクルーシブ教育の実現困難性を先行研究から整理し、その克服に向けた提言をしている。それは、「発達保障論」と医学モデルを根拠にした分離教育の存在の支配的認識である、障害を医学的・心理学的な克服の対象として捉える理論に対抗する概念の必要性からの、大阪市立大空小学校の実践の分析に基づくものである。紙幅の制約上、説明は割愛するが、それは、「エイジェンシー」機能の生起による通常学校改革を通した「ケイパビリティ」の達成といったことにある。そして、日本型インクルーシブ教育の早急で大幅な制度転換の実現は非現実的である中で、大空小学校の実践を、フル・インクルーシブ教育に至るまでの学び合いの場として捉える提言をしている。また、分離教育の歴史の背後には優生思想があることは否めないが、田中(2017)は、優生思想のみを批判すればそれでよいというものではなく、なぜ、弱い立場の人が実質的に排除され、強い立場の人が利益を得るのか、両者の立場の人は、能力の優劣とは無関係に支え合えないのか、その理由を考えるべきとしている。そして田中は、弱い者の排除か、みんなの協働か、有能の独善か全員の連帯か-といった二項対立ではなく、公共倫理に向かう必要性を述べている。「日本型インクルーシブ教育」と「フル・インクルーシブ教育」の狭間の課題を考えるには、日本の歴史に流れてきた「発達保障論」と「共生教育」、「優生思想」が孕む課題などから公共倫理に向かおうとする視点での、「考え、議論する道徳」が求められる。保育士・教員を目指す全ての学生においても、こうしたことを考えたり議論したりする機会を積極的に設けていく必要があると思われる。また、調査結果からは、特別支援教育を自分たちと同様には学んでいない学生の関心には差があり、専門知識に対する難しさを感じる可能性が示唆された。回答学生が「専門性」と捉える内容は、心身の障害や特別なニーズ教育、障害のある子供とのコミュニケーションや生活支援などにあったが、その「専門性」は狭義であるため、人権という視野で「専門性」を俯瞰的に捉え直すことが求められると思われる。野崎(2011)は、障害をもつ人が「医療、福祉、看護、そして特別な教育が必要な人」として、専門家らの支援の対象とされる中で、その人たちは限られた条件の中で生活せざるを得ず、社会から差別的な視線を受ける現実、「援助」の名のもとに人権侵害が正当化される可能性、また「障害者すなわち障害者福祉の対象」という枠組みからの脱却を目指し、文化としての障害、障害者として生きる価値に着目する障害学の視座を述べている。「日本型インクルーシブ教育」に対し、回答学生は、現行の仕組みの中での交流保育・教育の意義を高く認識し、多様な学びの場の選択肢があることにも肯定的であり、現段階でその肯定面を安易になくすことは難しい。一方で、回答学生が、全ての学生が学ぶ必要性として回答した数の少なかった内容こそが、国連からの指摘内容に日本が応えていく必要のある課題と考えられ、現状の「特別なニーズ教育」の問い直しも求められる。1994年サラマンカ声明の「万人のための教育」に基づく「特別なニーズ教育(SpecialNeedsEducation:SNE)」は、障害者だけでなくすべての人達へのものとして宣言され、21世紀の日本の障害児教育にも影響を与えたが、ここでの「特別な教育的ニーズ」の概念は、支援を必要とする、困難さをもつ、すべての子供たちを対象とした教育のことで、日本の特別支援教育のような障害児に限定的な解釈ではない。2005年ユネスコは、グローバル化の中で多様な子供たちが参加していくための「特別なニーズ教育」は、社会的に排除されている人々の自己選択、自己決定といった権利を保障すること、「メインストリーミング(米国に登場し英国にも取り入られた、障害のある子供たちが「より制限のない環境」によって適切な範囲で、一般教育の子供たちと一緒に学ぶことを前提に、障害のある子供たちを一般教育に統合する考え方)」の考え方を見直し、統合からインクルージョンに変えていくこと、合理的配慮の解釈にある包摂しようとする社会の義務を、社会的公正の考え方のもと理解していく必要があることを示している。この見直しが求められている「メインストリーミング」の考え方は、障害の重い子供たちにとっては利用できないとの批判や、子供たちの自主性や自立を支えられていないという課題が指摘されている(荒巻,2019)。共生社会の実現に向けて、保育士・教員を目指す学生に必要な学びは、現行の特別支援教育の専門性や、中部大学教育研究No.23(2023)―48―

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