中部大学教育研究24
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た。最後のレポート執筆は個別で行ったものの、それに至る過程で複数回のグループでの討論やポスター発表があり、またレポートについてもピア・フィードバックの機会があったことで、複数の学生がその交流機会を楽しんでいた様子が伺えた。クラスメイトからの意見で気づかされる点が多かったというコメントや、結果として「明らかにこの講義を受ける前と後では自分の考えの柔軟さが違うと感じる」といったコメントもあった。自分の問いを深めるにあたって自分とは異なる価値観や意見にふれることで、問いに関する多様な視点を得ることができたのかもしれない。とはいえ、異質な意見に出会った際にそれを自分に無関係なものとしてとらえていては十分な学びを期待することはできない。そこで授業ではグループ活動をするたびに「共感(empathy)」の概念にふれ、「他者の靴を履く(toputyourselfinsomeone'sshoes)」という表現を紹介した。その結果、授業後の学生のコメントの中には「『私の場合はどうだろう』と何度も考えることができて非常に良い時間だった」という表現も見られた。他者との関わりの意味を授業内で明確に伝えていくことが重要かもしれない。また、「言語と教育」という身近なテーマを議論するこの授業だからこそ、それぞれの経験や考えを共有する意味が大きかったのではないかと考えられる。学生のコメントには、問いを立てることの難しさや面白さに言及したものも例年以上に多く見受けられた。「問いに答える」ことはあっても「問いを立てる」という経験に乏しい学生が多いなか、当初は戸惑いを見せながらも、徐々に自分で問いを立てる面白さに気づいた学生が増えたという印象だった。複数名の学生が「講義が終わった後も自分の問いを考え続けたい」という趣旨のコメントを残しており、リベラルアーツ教育における知を求める態度の育成という点では一定の成果があったと言える。3年目の授業を受けた学生に初めて見受けられたコメントは「限界点を決める」ことの重要性に関わるものであった。授業では常に、問いの答えは一つではなく、「正解」よりも自他にとっての「納得解」を求めることを伝えていた。一方で、学生からすればどの時点で「納得した」と判断すればよいのかと疑問をもった者が多くいたようである。その点に関して、「ここまでは分かったがここからは分からなかった」ことを示す限界点の記述の重要性を汲み取り、それに最終的な感想で言及する学生が複数いたことは特筆に値する。紙幅の都合上すべてのコメントを掲載することはできないが、手書きのコメントに込められた学生の思いを伝えるうえでも、図1に一人の学生のコメントを掲載する(本稿への掲載について、本人の同意を得ている)。3年目の授業の課題としては、最終レポートの質のばらつきが挙げられる。3年目は成果物そのものではなく探究過程の充実に焦点をおいたが、それも関係しているのか、結果的に最終成果物としてのレポートの質は期待したほど高くはなかった。しかし、ピア・フィードバックにおける学生どうしのコメントやそれに対する執筆者による返答を見る限りは、レポートで執筆すべき内容やその適切な構成、文章形式については十分に考察できていたことが伺えた。つまり、優れた執筆を知ってはいるもののそれが成果物として形になっていないという学生が多く、今後はその点をどのように乗り越えるかという点が課題となった。中部大学教育研究No.24(2024)―52―図1授業を終えた学生からのコメント

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