中部大学教育研究24
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もう1つの課題としては、教員と学生一人ひとりとの関わりが挙げられる。前年度までの2年間は定員20名のクラスということもあり、それぞれの学生と密に関わり彼ら・彼女らの学習過程や変容を追うことができたが、人数が倍増した3年目は教員が個々の学生と対話する機会は限られていた。一方で、学生はクラス内で何度もグループを変えて互いに交流を進め、学生どうしの学び合いの機会は保たれていたと言える。今後はグループ内での学びに教員がいかに深く介入していくかという点が課題として残った。4リベラルアーツ授業の成果と課題前節では過去3年間の当該授業を振り返り、それぞれの授業の成果と課題を明らかにした。読み取ることができたのは、年度を追うごとに授業の質が上がったという教師の実感が、実際に授業後に提出された学生の最終コメントに反映されていたという点であった。1年目の課題としての言語と教育に関する知識の獲得、2年目の課題としての探究過程の共有やクラス内での対話については、それぞれ次年度以降の授業において対応・改善され、結果的に3年目の授業が(授業の定員数は倍増しながらも)最も質の高い授業になったのではないかと思われる。この3年間の授業をとおして教師として気づいたことは、ポスターやレポートなどの授業の「成果物」だけでなく、それを創り上げるうえでの他者との学びの「過程」にこそリベラルアーツ教育の意味があるという点だった。その過程の中でこそ、学生は基礎的な知識や発表・執筆技能の重要性を認識・獲得し、知を探究する態度そのものを育んでいくのだと思われる。すべてはまず、「知りたい」「考えたい」と思う気持ちをもつことから始まり、それは現状に疑問をもつことを自分自身に許したうえで「問い」として言葉で表現することから始まる。これらの態度や知識・技能の育成が有機的につながったとき、結果的に学生は自らを「解放」すべく歩みを進めるのかもしれない。情報の波に飲まれ刹那的に生きることを強いられがちな現代において、あえてこうした授業の中で一歩立ち止まって自身の問いを設定し、周りの学生や教員らとの対話をとおして思考を深めることで、自分が無意識のうちに囚われていたさまざまな「限界」に気づき、自ら考えることの楽しさを実感できるのではないだろうか。もし授業でその機会を保障できるのであれば、大きな意義があるのではないかと思う。5おわりに筆者らにとってリベラルアーツを「授業」として担当した経験は過去になく、教師自身も試行錯誤の3年間だった。それでも「こういった授業がもっと増えてほしいなと思います。」という学生のコメントに励まされながら、毎週・毎学期の学生の取り組みを見て教師どうしで議論を重ね、適宜軌道修正しながら授業を行ってきた。その過程には当然ながら教師自身の学びがあり、またこの授業をとおして大学における教育全体のあり方を俯瞰的に見つめ直すこともできた。目の前の学生にとって意義のある授業だと感じながら毎週の授業を実施できることほど、教師にとって充実した時間はない。参考文献石井洋二郎(2020)「創造的リベラルアーツに向けて」石井洋二郎(編)『21世紀のリベラルアーツ』(pp.15-56)水声社.石井洋二郎・藤垣裕子(2016)『大人になるためのリベラルアーツ―思考演習12題』東京大学出版会.石井洋二郎・藤垣裕子(2019)『続・大人になるためのリベラルアーツ―思考演習12題』東京大学出版会.加藤由崇(2023)「言語教育における探究的実践―「私」と「私たち」を主語とする問いの比較―」『中部大学リベラルアーツ論集』5,9-28.Kato,Y.(2023).Puzzlesinexploratorypractice:Theroleofwhyquestions.LanguageTeachingResearch.Advanceonlinepublication.https://doi.org/10.1177/13621688231220447鈴木順子(2021a)「リベラルアーツ授業の課題と展望―「死刑」「安楽死」をテーマにした討論実践の報告」『中部大学リベラルアーツ論集』3,33-51.鈴木順子(2021b)「リベラルアーツ・パイロット授業の報告―創造的リベラルアーツセンター(CLACE)発足に際して」『中部大学教育研究』21,31-40.鈴木順子(2022)「橋をかけるリベラルアーツ―他者と共に飛び立つための外国語」石井洋二郎(編)『リベラルアーツと外国語』(pp.177-198)水声社.「問い」から始めるリベラルアーツの授業―53―
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