2024幸友 VOL.27
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 1905年、地主の家に生まれた三岸節子(旧姓:吉田)。その名を冠した美術館が建つこの場所は、節子の生まれた家の跡地。生家は毛織物業を営み、工場は当時としては珍しいレンガ造りだった。そんな裕福な家庭に生まれ育った節子だったが、15歳のとき、世界恐慌のあおりを受けて工場が倒産。16歳の夏、節子は、“何者かになりたい”と思い立ち、家族の苦しみを背負いながら画家を目指し上京する。まだ女性画家の活躍がほとんど見られない時代、画家として生きていくには相当困難だったと想像する。 その後、節子は女子美術学校(現:女子美術大学)を卒業し、在学中に知り合った北海道出身の洋画家・三岸好太郎と19歳で結婚。その翌年、春陽会(1922年に設立された洋画団体)の第3回展に初出品した作品が、女性初の入選を果たす。その作品が、美術館の常設展示室の入口正面に展示されている「自画像」だ。展示作品が入れ替わっても、この作品は洋画家・三岸節子の出発点に位置する記念碑的な作品として常にそこにある。かわいらしいおかっぱ頭に相反して、画家になってやるという揺るぎない信念だろうか、力強い意志が感じられる鋭い視線が印象的だ。 訪れた日の常設展示室では、「知られざる人物画 節子の描いた美しい女性たち」と題したコレクション展が開催中だった。“知られざる”と銘打たれているように、風景画や静物画と比べて節子作品に人物画は少ない。また、“静かに黙っていてくれない”という理由から、生き物をテーマとした作品を好んで描かなかったようだが、本の装丁や雑誌の挿絵・表紙画に女性や動物を描いている。そんな希少な作品を見ることができた機会だった。常設展は、年に4回ほどテーマを変えて節子の画業や人生を知ってもらう狙いで開催している。さらに特別展・企画展も年3回ほど開催。節子とゆかりのある画家の特別展や、節子のエピソードから着想した企尾張西部から岐阜西濃にかけての地域は、古くから「尾州」と呼ばれてきた毛織物の一大産地。その中心を担う一宮では、今も所どころで当時の面影を残すギザギザの形をした屋根を見ることができます。今回は、そんなのこぎり屋根を模した美術館を訪れました。◀風景画のモチーフとなった ヴェネチアの運河をイメージした水路。◀鑑賞後にぜひ利用したい喫茶コーナー。 ブランデーケーキはお土産におすすめ。15提供:一宮市三岸節子記念美術館11

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