文学はどこまで教えられるか

お知らせ

    人文学部日本語日本文化学科
    教授 杉本 和弘

    30年以上も文学教育に携わっていながら、いまだに、果たして文学は教えられるのだろうかという 疑問にとらわれ続けている。 特に近代文学の場合、古典文学や外国文学と違い、言葉や時空の隔たりが小さいからか、かつて古典 文学を教える先輩から、教室でいったい何を教えるのかと尋ねられたこともある。 扱う対象は言うまでもなく文学作品である。

    私は作品を読むことを第一義と考えている。 作品を読み、「理解」するには、大きく2段階の過程があると思う。 第一段階は解釈、第二段階は批評である。 深い「理解」には正確で豊かな解釈に基づく的確な批評が必要である。 ただ、解釈と批評の境界は必ずしも明確ではなく、豊かな解釈は時に批評を含む。 文学作品を扱う場合に感じる難しさの大部分は上記の事に起因するように思う。 つまり、解釈の段階までは、語義や文脈、背景等、教えるべき事柄も比較的明瞭で、 字義通りの「講義」が成り立つ。問題は批評である。 作品をどう分析し批評するかは、例示はできても、具体的な実践は各人の考察によるところが大きい。 討論という方法もあるが、多人数を〈教える〉という次元からは遠ざかるように思う。

    では、私はどうしているか。 講読、講義、演習を担当しているが、方法に目新しいものはない。 教室では、より正確で豊かな解釈をめざし、できるだけ多くの補助資料を用いる。 文章を読むことは作業としては単調で、かなりの集中力と忍耐力がいる。 そのため、各回の講義のテーマを明確にすることを心がけ、授業の最後にその回の内容に関わる小作文を 課して興味を喚起するようにしている。 批評の領域で何もしないわけではない。 小作文は対象への切り口を提示する意味も兼ねているし、一作品を読み終えると小論文を課して各自の読み を問うている。 小論文は添削し、コメントを付して返却している。

    しかし、これで文学を教えることができたとは思っていない。 到達点は明示できないし、個々の実践に委ねる部分があまりに大きいからだ。 今は、入口まで連れて行ければよいと考えている。

    ANTENNA No.89 (2008年12月)掲載

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